共楽だるま自他共楽プラン +++ だるまる本舗 +++ HOME >


共に生きるって…

H20.12.07
■岡野語録で喝采
 偶然ラジオ番組で聴いた岡野雅行さんという町工場の社長さんの話にひかれて、岡野雅行さんの語録「俺が、つくる!」を読みました。
 社長の岡野さんを含め6人しか従業員のいない小さな町工場でありながら、金型とプレスの技術にかけては超一流。最先端の製品を次々に作り出し、大企業からひっぱりだこの岡野工業は、少し前に大きくニュースになった、「刺しても痛くない注射針」を作ったことで有名になりました。
 墨田区生まれのちゃきちゃきの江戸っ子の岡野さんは、ラジオ番組での歯切れのいい話しぶり同様、語録も楽しくて、おススメの一冊ですが、特に大番頭はその中に胸の空く一文を見つけました。
 京都議定書からこっち、世の中はCO2削減が、流行りの様に言われ、大番頭はモヤモヤしたものを抱えていました。CO2削減と言えば、原子力業界がきまって「化石燃料に代わって原子力。これからのエネルギーはCO2排出の少ない原子力」という様な、大嘘をぶつからです。実際には化石燃料なしに原子力業界は成り立たないのに。しかし、岡野さんの語録でそれを否定する一文がありました。

 「CO2の削減のために、今世界中で、ガソリンエンジンの車に代わる、無公害の車の開発が急ピッチで進められている。中でも燃料電池の研究開発は、どのメーカーも必死で取り組んでおり、いずれは、燃料電池は、車だけでなく、家庭の電気もすべて賄える様になるだろう。電力会社では、既に実験も行っている。燃料電池が実用化され、一家に一台発電機が導入されれば、電信柱と送電線が不要になる。ある電力系の会社では、10年前から送電線の発注が一切ない。」(「注文から日本の将来がわかる」より抜粋)

 岡野さんの工場には、大企業が頭を下げて新しい製品の注文にやって来ます。まだ世の中に出る前の段階のものを、始終見てきている岡野さんの目には、これから世の中がどの様に動くのかが分かると言います。
 もし岡野さんの言う通り、送電線がなくなれば、海沿いにしか作れない、大規模プラントである原子力発電所は、使い物になりません。送電線と電柱があって、はじめて原発の電気が家庭に届くのです。送電ロスと、送電コストがネックになる原子力発電所は、少なくとも家庭用電力において、必要不可欠ではなくなるのです。
 今後、間違いなく直面する原子力発電所から出される高レベルの放射性廃棄物の処理問題を思えば、膨大な送電コストをかけて電力を供給しなければならない原発は、もはや時代遅れと、誰もが気づく日が遠からずやってくるのです。ウレシイ。これほど嬉しい一文はありませんでした。
 もちろん燃料電池の普及が、完全に環境にやさしく、安全とは言いませんが、夢のエネルギーと言われていた原子力が、常に大暴走の危険をはらみ、しかも核のごみしか出さない時代遅れのプラントだということが証明されれば、島国・日本の命運が決まると確信します。一刻も早く、愚かな原発信仰が崩壊することを願わずにはおれませんでした。



H20.09.07
■横着病
 いきなりですが昨今のエコばやりで、新聞などに「レジ袋にかえてエコバックを持つようになりました」といった投稿記事をよくみかけます。そういった記事でいつもひっかかるのが、「レジ袋を断るのは勇気がいりますが・・・」の一文。勇気ですか?レジ袋を断るのが?チョコレート一枚買うのに、「袋はいりません」と言うくらいのことで勇気がいるとは、なんと臆病な。そんなに気弱なら、もう少し都会の生活は譲り合い精神が行き渡り、さぞかし暮らしやすくなっている様な気がします。携帯電話を手に自分の世界に没頭し、通りの中央をのんびりコンと王様の様に歩いている人たちが、レジ袋ひとつ断れない臆病者の一人とは到底思えないのです。

 レジ袋で思い出しました。スーパーのレジで精算を待つ時、前の人の精算が済んだら、自分のかごを前に動かして、後ろの人にかごの置き場を譲る人をみかけなくなりました。店員が手を出すまで何もせずボーっと立っている買い物客。自分の後ろにたくさんの人が列をつくっていてもそ知らぬ顔で、財布の準備をするでもなく、スイッチOFF状態の人たち。

 これって横着病にかかっているんだと思います。レジ袋を断ることが出来ないのは勇気がないからではなく、ひとこと発するのが面倒なだけ。スーパーのレジで自分のかごひとつ動かさないのは、ただ億劫なだけ。間違いない。これは横着病ですッ!

 ごちそうをたくさん食べたり、夜更かししたり、その場はラクで楽しいことが、あとで大きな病気の原因になったりしますが、横着病も同じような気がします。その場はラクチンですが、あとがコワイ。

 あ。だるまる主人に「あれ取って」、「コレやっといて」というのも危険だ。大番頭にも病の影が・・・。



H20.07.19
■幇間
 いきなりですが、ハリウッドスターが来日すると、彼らは大概日本びいきをアピールします。あれは、彼ら流のリップサービスなのかもしれませんが、そればかりではない様に思います。

 確かに日本は、観客として、また顧客として彼らにとって上客でしょう。たとえ彼らのエンターテインメントが、お国での評価が低かったとしても、日本は大いに沸いてくれます。日本はいつまでたってもハリウッドという言葉に弱い。広告に「全米1位の興行収入」の文字が躍っただけで、つい観に行ってしまうところがあります。彼らにとって「おいしい国」であることは間違いありません。

 ですが。合理主義のアメリカ人も、単にお金のことだけで、日本びいきを口にすると考えるのは、早計かもしれません。彼らが「日本大好き!」というのは、日本料理や日本文化への愛着とは別に、日本人の猛烈な褒め殺しに、すっかりはまってしまったのではないかという気がするのです。

 ハリウッドスターが来日すると、民放の情報番組は、朝から晩までスターの映像を流し、これでもかの歓待ぶりを放映し続けます。おそらくテレビカメラが映っていない時は、国賓ばりの扱いでおもてなしが繰り広げられているのでしょう。下へもおかぬ歓待ぶりに、心を動かさない人間はいないはずです。たとえ合理主義のアメリカ人とて例外ではないでしょう。

 たいこもち(幇間)の言葉がふとよぎりました。日本人がハリウッドスターを持ち上げるのがうまいのは、幇間気質が日本人の血に流れているせいなのかな、と思いました。ゲストを喜ばせるために、美辞麗句を駆使するのは、お手の物なのです。

 幇間というと聞こえが悪い様ですが、考えればスターに機嫌よく帰国して頂き、お国で日本のよさを触れ込んでもらえれば、これは大変な宣伝効果になるのではないでしょうか。「日本はいい国!」の口コミ効果は、意外にも難しい外交問題を解決する糸口になったりするかもしれません。

 そう考えると、幇間大いに結構!日本の精神――武士道や品格などが廃れた今日では、外交上の諸問題の突破口は、この「幇間精神」にかかっていたりして。褒め殺しは、誰の血も流しません。ハリウッドスターばかりでなく、国際政治の場でもばっさばっさと発揮してもらいましょう。それくらいのことだったら、骨抜きの政治家たちにも出来るのではないかな?



H20.05.04
■立ち位置を知る
 「立ち位置」ということがいつも気になっています。自分が今どこに在るのか。そしてこの先、人が右に進むならば、歩調を合わせて右に行くべきか、それとも右の道を譲って左を歩くべきか、立ち止まって人の流れを見ているべきか。これは人生の分岐点といった大きな話ではありません。生活のちょっとした局面での話です。  ひとつたとえ話をしましょう。

 往来に雑多の人がいます。自分のまわりにもそれなりに人が集まっています。往来の先から、人が走って来ます。理由はよく分かりませんがかなり焦っている様子です。そんな時心に浮かぶのはどんなことでしょう。

 A.「人が来る!ぶつかるのがイヤだからよけよう」
 B.「何をあせってるんだろう。こんなに大勢人がい
    るのに迷惑だなぁ」
 C.「走ってくる人がいるなぁ。まぁ自分には関係な
    いや」
 D.「何かあるのかなぁ。見に行こう」

   もっと突飛なことが頭に浮かぶ人もいるかもしれませんが、それは少し脇に置いといて…。
 ところでそれぞれの心のパターンから、人はある選択をします。ここからが立ち位置のお話し。

 A→ぶつからない様よけることにいっぱいで、
   まわりの誰かを押しのけて平気な人は、自分
   の立ち位置が分からない人。
   ぶつからない様避ける時に、どこに避けたら
   いいかまわりを見渡すことが出来る人は自分
   の立ち位置を知る人。

 B→「迷惑だなぁ」と感じた後、いじわるして道を
   ゆずらず、他の人の通行を妨げて平気な人は、
   自分の立ち位置が分からない人。急ぐ人の暴走
   が危険を誘発すると見て、急ぐ人を注意する人
   は自分の立ち位置を知る人。

 C→自分には関係ないからと無関心を装い、誰か別の
   人に道を譲らせる人は立ち位置の分からない人。
   理由はさておき、とりあえず自分の半身を引いて
   道を譲る人が立ち位置を知る人。

 D→急ぐ人の前に立ちはだかり自分の興味を優先する
   人が立ち位置を知らない人。急ぐ人が往き過ぎて
   から自分の興味を追求する人が立ち位置を知る人。

 貧困な想像力でお恥ずかしいですが、大番頭が気にする立ち位置の話、伝わりましたか?
 自分の立ち位置を知るということは、相手の立ち位置を尊重するということでもあると思います。以前パーソナルスペースのことを書いたことがありますが、自分の立ち位置について考える人が増えれば、個々のパーソナルスペースは整然と守られるはず。立ち位置を知れば、他者との適度な距離が分かりますからね。大番頭が立ち位置を気にしたいのは、パーソナルスペースが人より大きいからかもしれません。
 さてこれは道場での話しです。道場では号令がかかると、道場いっぱいに縦横揃えて整列しなければなりません。縦の列は最前列を基準に、横の列は正面に向かって最右端の列を基準にと、道場では整列の約束ごとがあります。そのとき、みなまちまちの場所で稽古をしているので、号令がかかるとスワ整列の為走るのですが、無闇に道場の端から端まで走る人がいます(それも相当数)。今いるところに一番近い所に立てば自然と列が組めるのに、自分の場所に穴をあけて、よその人をはじきとばす様な人は、まさしく自分の立ち位置が分からない人です。道場では八方目といって、正面だけでなく、八方に目を配る様にと教わるのに、実際には整列の時にさえ残念ながら発揮できません。全体を見渡し、自分がその中でどの場所に今あるか、その場所でどう振舞うべきか。それらを正確に把握することは簡単なことではないのかもしれません。でもあきらめずに自分の立ち位置を気にしていたいと思います。パーソナルスペース確保のためガンバルゾー!



H20.03.08
■ずんべらずんべら
 いきなりですが大番頭は男性の好みがうるさくありません。(そんなことないと誰かの声が聞こえてきそう!)外見や趣味嗜好、3高(古い!)なんぞには頓着しないので、ストライクゾーンが広いと自負しています(広いんだってば!)。しかし、これだけはイヤという気質はもちろんあります。
 男性女性に依らず、自分だけ得をしようというサモシイ根性は大嫌い。卑怯を恥と思わない気質も。ただ、こと男性に限って言えば、歩くのが異様に遅い人がだめ。
 制服姿の高校生や、きめきめのヘアスタイルのフレッシュマンが、ラッシュ時にのろのろ歩くのが許しがたい!人の波に乗って歩くことも、都会で生活する知恵です。ひとりだけのろのろしていたら、余計な渋滞を生んで迷惑をかけます。それに気づかない男は、普段の生活でも配慮のない男なのではと疑います。
 また大番頭は、多少武道をかじっているので、のろのろ歩きの体の使い方が気になって仕方ありません。足を引きずり、無駄に上体を揺らして歩く姿を見て、大番頭は心の中で「ずんべらずんべら歩くな!」と大きく叫んでいます。(時には口をついて出たりもするのですが)
 ずんべら歩きには、若さがありません。生命力を感じません。事有る時に、あの歩きで身を守ることが出来るのでしょうか。ましてや彼女や伴侶を守るなど不可能でしょう。よくずんべら歩き同士のカップルをみかけますが、混雑した所では、緊急時まきぞえにならないように少し離れてみたりします。ずんべらカップルなんかと心中したくありません。
 いい若いモンたちのずんべら歩きの原因を考える時、アタマに浮かぶのは、彼らの生活スタイルです。朝ご飯を抜き、昼も夜もコンビニかファーストフード(またはそれに近い食事)。汗を流して働くことなく、体とアタマを使うのはゲームか携帯電話相手にのみ。これではスタミナを養う余地はありません。通勤や通学でいきいきと歩けるはずもありません。それでなくても今の世の中。格差社会だの環境破壊だのと将来は真っ暗です。せめてそれらの障壁を乗り越える、気がまえと活力だけでもたずさえていなければ、生きていくことさえ至難の技です。大番頭の男性の好みはさておき、ずんべら歩きが日本を席捲したら、日本そのものがずんべらになりそう。若者のずんべら歩きは、次代の警告です。

 ここまでずっと雰囲気で「ずんべら」という言葉を使ってきましたが、俗に使われている「ずんべらぼう」を辞書でひくと、「行いがずぼらで締まりのないこと」と書かれていました。「のっぺらぼう」とも書かれていました。ああやはり大番頭は、「のっぺらぼう」で「ずぼら」で「締まりのない」男は御免です。歩くのが異様に遅い若者諸君!即刻朝ご飯をとって、しゃきしゃき歩きたまえ!



H20.02.03
■読売新聞はスゴイ
 突然ですが、大番頭家はごちそうさまの後必ず行うしきたりがあります。それは、食器とフライパンの油をチリ紙で拭き取ること。油ぎとぎとのまま流し台に置くのは最大のタブーです。ぎとぎとをスポンジでいきなり洗ったら、強力食器用洗剤を使わない限り、スポンジは何回もゆすがないと使い物になりません。気が短い大番頭はイライラします。強力食器用洗剤を使えば、一度で油汚れを落とすそうですが、大番頭の手の油も一度に落ちてしまうので、ハンドクリームを塗っても解消しない手荒れ地獄に陥ります。恐ろしくて使うことができません。エコ意識というより、ハンドクリームがもったいなくて、大番頭家は油ぎとぎとにはチリ紙が必須です。チリ紙、チリ紙と書くのは、大番頭家にはティッシュがないからです。新聞屋さんでもらったティッシュは特別なことがないと使いません。口の悪い友達が、昔のトイレ紙などと言ったりしますがとんでもない!ちりめん状に加工されたチリ紙は弾力といい、強度といい、コストパフォーマンスといい大変に優れているんです。チリ紙バンザイ!
 ・・・でも。やっぱり買ってきたチリ紙で油ぎとぎとを拭う時、なんだかもったいないなぁと思ってしまうのはケチのケチたる所以です。
 で、今日。油ぎとぎとを古新聞をちぎったのでぬぐった所、あら不思議。きれいに油が取れるではないですか。ソフトさも問題なし。これはいい!今度の休みには古新聞をまとめて切って、流しのそばに置いておこう。そうしたらサッと汚れが拭けて便利ですからね。しめしめと思った次第でした。
 さてではなんであえて読売新聞がスゴイかというと、読売新聞はスポーツ面がシャクに障るとはいえ、紙面の枚数が多く、折込チラシも画期的にふんだんに入る所。折込チラシは、生ゴミを捨てる時用に常時、A4版サイズに揃えてストックしていますが、この生ゴミ用チラシに困ったことがありません。東京新聞だとこれが出来ないので大番頭家では不採用です。
 以上の理由で読売新聞はスゴイ。大番頭家のナンバー1新聞です。



H20.01.05
■無駄を考察
 これって無駄じゃない?と思うことはしばしばあります。通勤電車の過剰な冷房や暖房。スーパーのレジ袋に、新聞がぱんぱんになる程の折込チラシ。深夜から朝方まで放送しっぱなしのテレビに、4匹目5匹目のどじょうを狙う同じ企画の出版物。高級料理を食べながらせっせとウエイトコントロールしたり、不摂生して調子が悪くなると栄養ドリンクをがぶ飲みしたり。しかし無駄の張本人はちっとも無駄に気づいていません。律儀に無駄を重ねて、むしろ良いことをしている気で悦に入っているものです。自ら気づかない無駄を、自らの手でそぎ落とすのはコレ至難の技です。無駄を重ねるとどこかに無理が生じます。無駄をそぎ落とすとその無理がひっこむでしょう。無理がひっこめが道理が通る。無駄をなくすというのは存外価値が高いものだなぁと、年賀状を書きながらぽつぽつと考えておりました。
 さて無駄というのは、当事者が気づかなくとも、第三者が見て無駄であれば指摘して是正すればよいこと。しかし、良いことをしていると思っている人に、無駄を指摘し、ましてや是正することなどはなかなかできるものではありません。世の中から無駄が消えないのはそのせいでしょう。他人の無駄をなんとかしてもらうより、まず自分の無駄に気づくこと。さしずめ大番頭の無駄は…。まぁ今年のテーマなのでこれからじっくり考えましょう。こちらの駄文が無駄と言われると返す言葉が見つかりませんが。



H19.12.05
■健康は誰のため
 今日は父の69歳の誕生です。父は昨日右眼の白内障手術を行っており、これで父は両眼ともに緑内障手術と白内障手術を終えました。かつては深刻な病気と怖れられていましたが、今は腕のいい先生にかかると、手術もわずかの時間で、いくらか医院で休めばその日のうちに自宅に帰れるそうです。医療の進歩には驚くばかりです。今朝の父からのメールでは、手術をした右眼の眼圧が高くなっているそうで、眼圧を下げる点眼薬を処方してもらったと言ってました。誕生日というのにチト気の毒な父なのでした。

 そんな父に朝一番で「誕生日おめでとうメール」を送ってみたのですが、自分の年齢はことあるごとに自覚があるものの、父が来年の誕生日で七十の大台に乗るとは、正直驚きでした。七十といえば、イメージとしてはおじいちゃん・・・。普段はスポーツクラブに日参し、会社員時代の仲間と集まりをもつ父が、来年古希を迎えるというのは、なんだか違和感いっぱいです。それも父が現役時代と変わらずに、いきいきと暮してくれているおかげなので、娘にとってありがたい違和感ではあるのですが。

 とは言うものの今朝の父宛のメールにはこう書きました。「健康に過信しないで、マメに健診をして体に気をつけて下さい。病気になって医療費を払うほどばかばかしいことはナイ!病院に大金を使うくらいなら、健康維持にお金をかける方が、肉体的にはもちろん精神衛生上もはるかに有意義よ!」と。体にいいものを適量とり、存分に体を動かし、そのための贅沢ならしてほしいと思って書いてみました。

 世の中には、体をだらけさせ、体を思わない暴飲暴食でその場の快楽を楽しんで、後で病院の厄介になって、「長生きなんぞしたくないんじゃ!」などと開き直る困り者がいますが、当人が病気をあきらめることは出来ても、身内や親しい者はそうはいきません。放っておくわけにもいかず、困り者であれ面倒をみなければなりません。

 健康でいるということは、自分のためではなく人のためです。あえて繰り返しますが、健康は、「自分のためだけ(←)ではなく、人のためでも(←)ある」ではなく、「自分のためではなく人のため」なのです。

 大番頭思うに、社会は体の強い人が体の弱い人を援け、ともに生きてこそ正しく成り立っているのだと思います。であれば、体が弱いことで開き直ることは許されません。より体の弱い人を援ける義務があるからです。つまり体が弱い人も強い人も、誰かのために健康になろう!と頑張らねばならンということです。健康を投げ出しちゃダメ!

 こちらを読んでくださっている皆々様のご健康を心よりお祈り致します。来年もいい年になりますように!



H19.10.12
■2つの記憶力
 今朝つい口をついて出た言葉が、我ながらナイス!と思いまして、早速こちらで一席設けました。

 だるまる大番頭はシゴトで健康保険について、いくらか関わっています。もともと記憶力に自信がないので、苦手な法律のことや難しいシステムがなかなか頭に入りません。やっとこ理解できたことも、翌日に消えてしまったりして、「その話この前の会議で出ましたよ」などと指摘されると、それはもう身の小さくなる思いです。  それもこれも毎年の様に社会保険法が変わるのが元凶だぁ!と、野党なみに社会保険庁に怒りの矛先が向かうのですが、最終的には「トシをとれば記憶力も低下するわい。仕方ないさ」と慰めるのが常なのです。

 ところで今朝、朝ご飯に食パンを焼いて、ゆで卵とピクルスをマヨネーズで和えたものを載せて食べようと思い、だるまる主人に材料を載せたお皿を渡して「混ぜておいてね」と言って台所に戻りました。ところがうっかりマヨネーズを渡すのを忘れてしまったので、だるまる主人に「冷蔵庫から出してね〜」と声をかけた所、「さっきお皿と一緒に渡したよ」と返事が来ました。そうなんです。大番頭はこの一件ばかりでなく、「何々をし忘れた!」と言う時は大抵の場合、「何々をし忘れて」いないのです。「何々をした」ことを忘れているだけなんです。
 例えば家を出る時に、ドライヤーのコンセントを抜いた記憶が定かでない時、100%抜いています。玄関の鍵をかけた時も、何度もドアノブをガチャガチャ回して開かないことを確かめて出るのですが、道の途中で「ガチャガチャ」やったかな?と不安になって戻ります。戻ってドアノブに手をかけた途端に「あ。さっきやった」と思い出すのです。
 火にかけたお鍋にお砂糖を入れたかな?とか、生ゴミの袋の口を結んだかな?とか。会社でも、このFAX送ったかな?とか、控えをとったかな?といったことは、不安であればあるほど、確認するとちゃんとやっているようです。

 今朝、だるまる主人に「さっきお皿と一緒に渡したよ」と言われたとき、大番頭は
 「年とともに、アタマで覚えた記憶はあやしいけど、カラダで覚えた記憶は忘れてないんだよ」
と言いました。
 これってなかなか言い得て妙だなぁと思ったのです。若い頃はアタマがやわらかいので、新しいことはアタマがどんどん吸収していくのでしょうが(大番頭はそうでもなかったけど)、年を取るとアタマも老化するので、アタマで記憶したことは次々と忘れていきます。
 ところが年を取ると経験値は増えるので、同じことを繰り返す、カラダに記憶させる行為は、知らずに数をかけているわけです。年をとるほどに当然かける数が増えるわけで、カラダの記憶力は年配者の勝ちなんです。
 大番頭はまさしくこの境地(!)に近いのではないかと思うのです。
 ですからもし、年をとって記憶力が低下したことを嘆いている方がいらしたら、心配される必要はないのです。カラダで記憶したことは、アタマで記憶することのように時間が経っても消えたりせず、時間を費やすほどに経験値として増えるばかりなんです。心強いではありませんか!

 爽やかな秋の朝。この澄んだ空気のおかげで、冴えたことを言ったなぁとホクホクしていましたが、待てよ。実はどこかのエライ人が、既にこんなことを言ってたのをどこかで聞いたことがあったのかな?と不安になり・・・。このへんがアタマの記憶力に自信のない大番頭の悲しいところです。
ちゃんちゃん。



H19.08.08
■共生と謙虚
 自然との共生という言葉を最近よく耳にします。エコとかロハスという言葉が流行る昨今には耳障りよく響きますが、よく考えると不遜な言い方です。人間が生きてそこにいる場所は、自然の中であって、人間と自然は対等の存在ではありません。人間は自然の懐の中で、住まわせてもらっている小さな間借り人であるのに、自然と同等の立場で共に生きましょうなどと聞いて、神さまとか、或いは宇宙のどこかから人間界を見ている誰かは、呆れ顔をしているのではないでしょうか。
 日本人はかつて、自然から多くを学んでいたと聞きます。樋口清之氏の「梅干と日本刀」で、鎌倉の由比ガ浜にある700年前に作られた防波堤について書かれたくだりがあります。今日ある防波堤は、一般的に巨大な壁状の造作物で、大波という自然の力に対抗して作られたものです。しかし700年前の由比ガ浜の防波堤は、海中のあちこちに、石の積み重ねを島のようにいくつも作って、波の力を分散させて弱めるようなつくりになっているそうです。自然の力に逆らわず、大きな力は大きな力として受け入れ、抗わないという視点は、自然に対する観察と畏怖から出た発想と言えます。
 文明の発達とか科学の発展の名のもとに、不要なものを排除しながら、手当たり次第に自然をぶち壊しにしててきた現代人ですが、そろそろかつての日本人の心に立ち戻って、自然に対して謙虚になる時期が来たのではないでしょうか。人間は所詮小さな存在です。自然に対抗したり、征服したりなど出来るはずもないのです。自然環境へと回していたツケが、今返されていると、ニュースを見るたびに思います。
 まずは、中越沖地震で露呈した原子力発電という機構の脆弱さに目を向けてみませんか。人間には核分裂反応や放射能を征服する力はありません。今この時も、自然環境に垂れ流した放射能や、温排水が、人間を含めた地球環境、自然環境を汚染し続けています。自然との共生どころか、いつか人間どうしさえもが共生できない日が遠からずやってくると危惧します。
 何度も書きますが、人間は小さな存在で、地球に君臨する王ではありません。そのことを知って、謙虚になって初めて、自然から豊かな恵みを享受できる資格を得るのではないでしょうか。



H19.06.03
■ハケンのシゴト
 ひところ「ハケンの品格」というドラマがヒットして、世の派遣社員たちがクローズアップされた時期がありました。大番頭は現在派遣社員として勤めをしていますが、あのドラマの強引な展開と現実離れした人物描写に辟易して、早々に見るのを止めてしまいました。どんなスーパー派遣社員でも、ひとりの人間が会社を動かすなどとは、ドラマの中でしか起こりえません。正社員といえども、会社の利益を追求するために、見方によっては会社の歯車となって職務を果たすものです。そこに派遣社員と正社員の違いはないと思います。
 会社の経営者にとって、「歯車」がどこ製だかは関係ないでしょう。機能的に働きさえすればそれでいいというのが合理的な考え方でしょうから。

 とはいっても終身雇用制度が崩れたとはいえ、派遣社員にとっては、安定した雇用関係を維持できる正社員が少なからず羨ましいものです。大番頭も、一朝派遣先で身に不幸が降りかかると、「正社員のクチを探そうかしら…。」と真剣に思ってみたりするわけです。たったの3ヶ月契約で、ある日突然派遣先が「次回の更新はありません」といえば、真っ青になって次の会社を探さなければならない浮き草家業。次々と職場を変えることに抵抗がない(むしろそういう形態を望む)人たちは、「何を言ってるの。」と笑うかもしれませんが、ある程度の年齢を超えると、3ヶ月ごとの緊張感は思いの外負担なものなのです。そうでなくても自分の財布から通勤の定期代を出す時、ボーナス時期に社員が沸き立つ時、緊急連絡網に派遣社員が入れてもらえない時、等々・・・もやもやします。選んで派遣の雇用形態に身を置く者でも、「やっぱり正社員はいいな。」という気持ちがふつふつと沸いてきます。「となりの芝生」と言われればまぁそうなんですが、頑張れば頑張るほど、ふとした拍子にため息が出たりして。

 しかし或る時考えました。正社員は会社から直接雇用されていますから、自分の働きは雇用契約を結んでいるひとつの会社にしか貢献しません。しかし派遣社員は、派遣先の会社に貢献しつつ、派遣元の会社にも利益を生んでいるんですね。そりゃわずかばかりの利益でしょうから、尊大になるほどのことではありませんが、自分ひとりの働きが、少なからず2つの会社を潤しているというのは、存外気分のいいものです。単なる思い込みなので、能天気な話ですが、これを無理やり自他共楽に結びつけたって、罪はありませんよね。いかがでしょう。えへへ。



H19.02.03
■あるのに使わない
 今の世の中、身のまわりにはあふれるほどのモノ、モノ、モノ。要か不要か分からないけれど、意地汚く取りあえずかき寄せ、埋もれるように生きている。山と積んだモノの中で暮らしているせいか、気づけば持っているのに忘れているもの、あるのに使わないもの。そういったものが幅をきかせている。使わないということはさして必要でないもなのか?
 「あるのに使わない」を考える。

 新聞販売店が契約更新の時にもってきた高級ティッシュ。もったいなくて安いチリ紙しか使えない大番頭。半年前の更新でもらったティッシュがまだ終わらない。 ・・・だるまる家

 健康保険組合のポイントでもらった折りたたみ自転車。言い訳になるが「歩く方が健康的なんだもの」。・・・大番頭

 納豆についてくるたれとからし。健康的な納豆に食品添加物入りの調味料を使いたくない。でもこれはゴミ箱に直行。・・・大番頭

 電話。遠くの人への連絡はメールで十分。NTTの請求はいつも基本料金だけ・・・だるまる家

 「膝」。使ってないのは満員電車で棒立ちの乗客。自惚れるわけではないが大番頭は使っている。膝を使えば、ふらつかず周りの乗客に迷惑をかけない。膝を柔らかく使うことは道場で学んだこと・・・満員電車の乗客

 ウーハー。賃貸木造住宅で低音を響かせては近所迷惑。・・・だるまる主人

 やかん。実家は湯を沸かす時に大番頭が反対するのも聞かずポットで湯を沸かす。湯を沸かすのにエネルギー効率の悪い電気を使っているうちは原発はなくならない。・・・大番頭の実家

 思いやりの気持ち、正義感。水を差したり、茶化す風潮が、大切なことを閉じ込めさせてはいないか。・・・現代っ子

 「あるのに使わない」は、まだまだありそう。
 でも今晩はこのへんで。



H18.12.03
■江戸しぐさ(3)
 時代劇でよく見る場面ですが、大名行列が通る時に、往来の人々は皆土下座しますよね。でも、その大名行列の前を横切ってもいい人があったそうです。それは赤ん坊を取り上げに向かうお産婆さん。江戸時代は先にも書いた通り封建社会ですから、さぞや男尊女卑の著しい女性には住みにくい世の中だったのだろうと思いきや、実は女性は仕事の面でも、結婚の面でも非常に恵まれていたようです。以下に越川禮子著「江戸の繁盛しぐさ」の文章を引用しました。

 「銭湯の男湯ではカカア自慢の亭主がお互いに競い合い、その自慢の内容によって居場所が決まった。自慢気のない女房を持った亭主が良い場所にいると、その座を追われたという。」

 さしずめだるまる主人は銭湯では最上座で大威張りしていたことでしょう。わはは。

 商人が大半を占めた江戸の町では、女性の手腕が商いに大いに貢献したようです。デキル女将の店は繁盛しますから、男性も一目置くのは当然のことですよね。結婚も、意外にも見合結婚より恋愛結婚が多かったそうです。江戸の町は参勤交代や、単身赴任の男性が多く圧倒的に女性より男性の数が上回っていたそうですし、江戸の町の女性はモテモテだったみたい。あぁ。東京生まれの大番頭は生まれるのが遅すぎましたね。



H18.11.05
■江戸しぐさ(2)
 江戸時代といえば、「士農工商」という身分制度にしばられた封建的な時代と言われています。現代の生活に比べ、さぞや窮屈なものだったのだろうと想像するわけですが、果たして本当にそうだったのでしょうか。

 確かに武士は農民に年貢を納めさせていたので『士』と『農』の間には支配関係がありました。『士』−『農』の間には支配関係があるものの、『農』『工』『商』については、それぞれお互いに独立した職業というだけで、いずれが上ということはなかったようです。樋口清之氏の「梅干と日本刀」では、下のように紹介されています。

   「士農工商という熟語は、それぞれ、ヨコに連なった職種の分類的意味合いの方が強い。(略)タテ割的階級分類ではなく、職種の名目上の序列(階層)といったほうがよい。」

 教科書で学んだ「士農工商」とズレがあるように思います。

 とは言っても、なぜ『士農工商』の順になったのか。
 この順番を見ると、お金に多く関わるほどに序列が下になっていることに気づきました。

 現代はお金が多く集まっている人の序列が上。どんなに品性が劣っていても金持ちというだけで大威張り。マスコミだけでなく、子供までもが「夢は金持ちになること」などとすっかり洗脳されている始末。
 お金が多く集まるほどに下というのは、江戸時代の品性を垣間見るようで愉快な気がします。

 江戸しぐさに「駕籠とめしぐさ」というのがあるそうです。
 一財産をなして、駕籠に乗れる身分になっても、訪問先の手前で降りて歩いて行くのがたしなみと、とらえられていたようです。けして店先に横付けしたりしないのが江戸しぐさのつつしみ。
 大金を手にして我がもの顔のふるまいは、稚児しぐさと呼ばれ、嘲われたようです。
 セレブなどと持ち上げられ、ブラウン管に得意満面の笑顔を見せる娘を見ると、江戸時代の人の品性をつい思います。「駕籠とめしぐさ」のつつしみが今の人々に僅かでも残っていたら…。

 「士農工商」の時代の人々は、「格差社会」と言うとどういう社会を想像したでしょうか。
 「士農工商」という身分制度の代名詞ともいえる言葉は、実は江戸幕府を開いた当時にはない言葉だったそうです。
 江戸中期に熟語化された言葉ということなので、少なくとも江戸初期の人々は、自分たちの社会が四階層に分かれているなどとは感じていなかったということです。
 現代人は子供までもが、格差社会を実感しながら生きています。身分制度に縛られていた時代とは、一体どちらの時代のことを指すのが本当なのでしょうか。考えてしまいます。



H18.10.04
■江戸しぐさ(1)
朝ラジオで目覚める大番頭が、起きぬけにいきなり聞くニュースは、 幼児惨殺だの、酒酔い運転によるひき逃げだの、談合容疑で逮 捕だの、裏金で懲戒免職だの・・・。毎朝毎朝、胸の悪くなるニュ ースは枚挙に暇がありません。
しかも、逮捕なり明るみにされた当事者は誰も彼も罪の意識さえ なく、開き直った態度。どこまで日本人は恥を知らなくなったのか。
これからの日本に希望が持てません。

そんな毎日の中で、ふとしたきっかけで出会った「江戸しぐさ」。
読売新聞に紹介された「傘かしげ」という言葉を知ったのがそもそ ものはじまりだったのですが、その奥深さを知るにつけ、今こそ 「江戸しぐさ」が求められている時、と感じずにはおれませんでした。
この「自他共楽」のページでも、いくらかとりあげてきましたが、 それは「江戸しぐさ」のほんの一部を紹介したにすぎませんでした。
「江戸しぐさ」を紹介した本は実に少ないのですが、越川禮子さん の本を多分に抜粋させていただき、ここを訪れて来られる方にも、これをきっかけに、是非越川禮子さんの「江戸しぐさ」の世界に、一歩を足を踏み入れて頂きたいと願います。

そもそも「江戸しぐさ」というものが、江戸町衆のマナーの総称のよ うに捉えていた大番頭でしたが、それは大きな勘違いでした。
もちろん、マナーの側面もあるのですが、それは「江戸しぐさ」のカタ チの部分であって、中身の部分について、ちゃんとは分かっていなかったのです。

「江戸しぐさ」の根底には、江戸の町衆の「共生の哲学」があったそうです(←進歩的!)。江戸幕府が開かれたことにより、当初江戸の町には、他所から多種多様の文化を持った人々が集まってきました。そのため、 円満に生活するためには、マナーだけでなく、共生のための考え 方や身のこなし、またそれを継承させるための養育(教え育む”教 育”ではなく、養い育む”養育”)が必要でした。気持ちよく暮らすた めに、そして商人の多かった江戸では、商いを繁栄させるために、 江戸幕府を下支えするという気概を背景にして、「江戸しぐさ」が 浸透していったそうです。

町衆は「講」という集まりを設け、さらに「江戸しぐさ」の考えに磨き をかけました。ただし「明文化すると俗化する」ことを恐れて(文章を 残すことは政治的にも禁止されていましたが)、江戸しぐさの真髄は 常に、口伝と実際に体験させて学ばせる実学による伝承に限られたそうです。

「講」とは、ある特定の目的ごとに集まるグループ(会員制のクラブに 近いそうです)で、「江戸しぐさ」だけでなく、いろいろなことが行われた り、話し合われたりしたそうです。(蘭学者高野長英の「オランダ講」や、 女性たちによる「姉様人形講」などユニークなものもあったそうです。) 教育についても、今では寺子屋はよく知られていますが、「講」が果た す役割も非常に大きかったようです。

さてここで、寺子屋という言葉が出たので、江戸の町のこどもたちの教育について、さらに越川さんの著作より引用させて頂きます。江戸の教育法は「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理」と呼ばれました。

●三つ心
三歳までに脳と体と心の関係を悟らせ、心の糸で脳と体をコントロー ルするようにさせること。三歳のこどもに言葉は分からないので、お となが手本を見せて、その場その場で相応しい態度をとることを教 えたようです。静かな場所では騒がないとか、欲求が満たされなくても 我慢するとか。現代社会では、おとなでさえ、そういったことがアヤシイですから、江戸時代の三歳児に負けていますね。

●六つ躾
六歳くらいからは「講」や「寺子屋」に参加する際、大人の話すことを、 黙って、目を見て聞くことを徹底させたそうです。心を養って、実践する術を 身に付かせるのがこの年齢のようです。例えば茶碗の洗い方、しまい 方、箸の持ち方、畳の掃き方、雑巾の絞り方、廊下の拭き方などとい ったことを、大人たちから見様見真似で学ぶということ。こちらもまた、現代人にとっては、難しいですね。道場の作務の時に、おとながが箒を使えなかったりしますから。

●九つ言葉
九歳までには、どんな人にも失礼でない挨拶ができるようにさせたそうです。「さようでございます」「お寒くなりました」などと言えなければ、 この先商人として大成できないとみなされ、長男でも家督が継げない ことはいくらでもあったそうです。

●十二文
十二歳になる頃には、一家の主の代書が出来るように教えられたようです。注文書、請求書、苦情処理の弁解書も書ける様に鍛育したそう です。十二歳で!?

●十五理
十五歳には、経済、物理、化学、科学などの森羅万象が、実感として 理解させたようです。十五歳を子育ての総仕上げとし、武士の元服も十五 歳だったそうです。

「講」は、こうした段階的な子供の教育の場としても重要な位置付けだったようです。そして「講」による教育は、礼節と自立心を育み、江戸の繁栄と治安の維持に貢献していたことは間違いないでしょう。
みなが参加して知恵を絞り、協力し合い、町衆が独立自尊で確立したこの「講」のシステムは、今の世の中にこそ切望されるシステムと痛感しました。自他共楽を標榜する大番頭は、江戸暮らしがしたくてたまらなくなりました。無礼者のいない世の中!なんともうらやまし〜!

・・・つづきはまた。


  出典:越川禮子著 日経ビジネス人文庫「江戸の繁盛しぐさ」



H18.08.05
■猫の母子
ブログの方で、先週思わせぶりな文章を載せてしまいました。
実はブログで紹介していた仔猫が、先週の日曜日に相次いで2匹死んでしまったのです。
日曜日。いつもの通り少林寺拳法の稽古に行く途中、白いブチの入った仔猫が駐車場で倒れていました。駐車していた車が発進した時に、轢かれたのではないかと思います。(仔猫は写真にもある通り目が悪かったので、普通の仔猫のように俊敏に逃げられなかったのだと思います。)
大急ぎで、だるまる主人にしらせに家に戻り、再びその場所に2人で戻った時、母猫が仔猫をくわえて、駐車場の隅に寄せようと懸命に引張っていました。母猫は、仔猫にまだ息があると思って、我が子を隅に寄せて、介抱しようとしていたように思います。小さな体で懸命に仔猫をくわえ歩く姿に、ただただ胸が締め付けられました。だるまる主人も大番頭も、仔猫の無惨な姿をそのままにしておくことも出来ず、2人で近くに仔猫を埋めに行きました。
ところが・・・。
夕方買い物に行く時に、もう一匹の子猫も倒れていたのです。
こちらの仔猫は外傷がなかったので、おそらく栄養失調と急な暑さによって衰弱したのではないかと思います。1日に2匹の子どもを失った母猫は、いつまでもいつまでも、その仔猫の体を舐めつづけていました。まだまだ子供のようなあどけない顔の母猫ですが、仔猫をいたわる姿が本当にいじらしく、かわいそうでたまりませんでした。
2匹目の仔猫も先の仔猫と同じ場所に葬り、その晩は辛い気持ちで床につきました。

まだまだ若い母猫にも、子を思う気持ちがこれほどあるというのに、近頃新聞紙面を賑わす人間様の無惨な幼児虐待のニュースは、どういうことなのかと、あらためて憤りを覚えました。憤りを覚えながら、なぜ感情を知覚出来る人間だけが、残酷なことを平気で出来るのか、なぜ他の動物のように無心に生きる術を持たなかったのか、思われて仕方がありません。
その答えを得るために「人知」を授かったというのなら、やはり大番頭は他の動物のように「無心に生きる者」に生まれたかったです。



H18.07.29
■夏が来る前にバテバテ
大番頭は疲れています。
仕事、家事、少林寺拳法。体が疲れる原因ははっきりわかるので、うまくサボって休んでしまうのですが、疲れているのは体より心の方です。
これまでも、おもてで無礼な人を見ると一日不愉快だったものですが、最近は無礼な人を見ない日がありません。見ず知らずの人ばかりでなく、知った顔の人間にも腹を立てていたりして、家に戻ると疲労困憊。だるまる主人に八つ当たりして、だいぶ気の毒してます。
満員電車なのに奥に詰めないOLや学生、道端で歩きタバコするサラリーマン、親身に相談に乗り厳しいアドバイスをしたら途端に音信不通になる後輩、スーパーの通路を塞ぎレジカートを1ミリも脇に寄せない主婦、居酒屋に夜遅くこどもを連れて行く母親の団体。・・・もうウンザリです。
自他共楽を謳ってはじめたこのHPもアクセス数が伸びないのは、自他共楽など流行りではないということなのでしょう。シアワセは自分だけのもので、ちょっぴりも譲れない貧しい人達ばかりが、幅をきかせる世の中なのかもしれません。気が滅入るばかりです。
意欲減退で更新が滞っておりますが、なんとか元気のタネをみつけて奮い立たせていくしかないですね。しばらくそっと見守っていて下さい。



H18.07.02
■叱るということ
今日は少林寺拳法の練習日でした。
はじめて見る男の子が2人来ていました。あとで聞く所によると、その2人は小学校3年生と小学校1年生の兄弟でした。
今日は他にも小学生の拳士が何人か来ており、普段よりにぎやかでしたが(通常は子供の少ない道院なので)、小学校1年生のその男の子は、鎮魂行が始まっても全く落ちつかず、お兄ちゃんの小学3年生と顔を見合わせて遊んでばかりいました。皆で聖句を唱和しても奇声を発したり、ふにゃふにゃ動いたりで、いくら大番頭が注意しても全く聞く耳をもちません。横に立ってしゃんと立たせようとしても、ふざけてばかりで効果はゼロでした。
そんな所へ先輩の女性拳士がその小学一年生の拳士の腕を引いて、道場の外へ連れ出しました。その先輩拳士は普段子供の指導ばかりでなく、某大学の少林寺拳法部の監督もされており、厳しい方ではあるのですが、小学一年生のその拳士を一喝されました。その声は、道場の唱和の声にも勝るほどの厳しい声で、さすがのその小学1年生拳士も、先輩拳士に圧倒されたようでした。
「もうふざけないのなら戻りなさい。」
そう言われて戻ってきたその拳士は、鎮魂行の間大人しく皆と結手することができました。鎮魂行の間中、先輩拳士の方が隣に立って唱和の言葉を合わせていました。叱りつけるだけでなく、皆と同じように鎮魂行が出来るようにきめ細かに指導されたのです。
大番頭は、その叱正に胸を打たれました。大番頭自身も子供を叱ることを厭わないとそれまでは思っていましたが、あの一喝が大番頭は出ませんでした。先輩拳士の言葉は、実に厳しい言葉でしたが、あれだけの迫力でこどもを叱れる人が我が道場にも何人いるでしょうか。
「あぁ、この先輩には敵わない。」と、つくづくと思いました。
こどもの人気を得るのは簡単なことです。しかし本物の指導は厳しさの中でしか出来ないのだと思いました。大番頭は今日は大変なショックを受けましたが、本当の意味で「叱れる人」にならなければならないと痛感しました。そのためには自らにも厳しくなければならないでしょう。課題は大きいです。



H18.06.04
■《話し上手》と《話し下手》
新聞の人生相談に、人とうまく話ができない悩み相談が取り上げられることがあります。そんな人生相談を見ると大番頭は、《話し下手》の治し方は難しいけれど、《話し上手》の資質はなんとなく分かるなぁと考えています。 話し上手な人って、まず人の話を聞くことが好きな人ではないでしょうか。 話を聞くことが好きな人は、相手の話にうなづける。興味が沸くと質問ができる。質問をもらった話手はうれしいからどんどん話す。聞く側は知識が増える上に、質問を繰り返すことで会話のキャッチボールの訓練ができる。蓄えた知識を別の相手に披露することができる。…そんなサイクルで、《話し上手》さんが出来上がるような気がします。 「話し上手は聞き上手」とは、よく言ったものですね。最近の人は一足飛びに《話し上手》になる方法を教えてもらいたがりますが、まずは人の話を聞くことからはじめてみたらいいのに。それに世の中は《話し上手》より、《聞き上手》を求めているものですよね。大番頭は、話し出すと止まらない、《聞いてもらいたがりの話し下手》さんにたくさん会います。



H18.04.23
■そろそろ起きないと
 この春、大番頭は原発に関わる報道に一喜一憂の日々でした。
今回は、あえて大番頭の言葉を載せていません。大番頭の百の言葉より、新聞記事を時系列に沿って紹介する方が、遥かに多くのことを訴えていると思ったからです。手元の新聞記事と、だるまる家の本棚の資料を、ただただ転記しました。いずれも出典を記載しておりますが、無断転載したことにお咎めがあるかもしれません。極めてマイナーな個人サイトなので、許されると信じておりますが・・・。


2006.3.20 読売新聞・朝刊より

 日本原燃の核燃再処理工場(青森県六ヶ所村)では、近く試験運転の最終段階である「アクティブ試験」に入る見通しとなっている。<略>核燃再処理工場は、国が国策と位置づけている核燃料サイクル政策の中心に位置する。原子力発電所でウラン燃料を燃やすと、使用済み燃料が出る。この中には燃え残ったウランや、ウランが燃焼したことにより新たに生成されたプルトニウムが含まれる。これを再処理して、再び燃料として使えるようにする施設が再処理工場だ。<略>本格稼動すれば、年間800トンの使用済み燃料を再処理できる。


久保寺昭子・東京理科大名誉教授のコメント

 「放射性廃棄物などについては、非常に低い濃度まで、法律で規制しています。再処理工場に対する国の基準は年間1ミリシーベルトで、安全審査で定めた上限は0.05ミリシーベルトです。これに対し、実際の計画では0.022ミリシーベルトであるので、健康に対する安全性には問題はないと考えます。そもそも土の中や海中にもたくさんの放射性物質が存在しています。再処理工場から出される放射性物質は十分に拡散される計画なので、これが一つのかたまりとなって、ある特定の海域に漂っていくなどということも、常識的に考えてありえないことです。イギリス、フランスの再処理工場からの放射性物質が原因で病気になった人がいるという声も出たことがあるようですが、両国とも綿密な学術的追跡調査を行った結果、そのような事実は認められなかったことを両国とも正式に発表しています。私も以前、現地に行って調べたことがありますが、やはりそういった事実は確認できませんでした」


1994.1.25発行 新潮文庫 広瀬隆著「最後の話」より

 イギリスとアイルランドのあいだに、アイリッシュ海がある。その海に臨むウィンズケール再処理工場は、放射能汚染で悪名高くなったため、現在では名前が変ってセラフィールド再処理工場とよばれるようになった。<略>再処理工場から海水や大気中に放出される放射能によって子どもたちが白血病に冒されているという状況が、90年に医学誌などで証明され、静かなパニックが起こりはじめた。その時までにすでに七年来言われてきたことではあったが、医学的にも改めて証明されたのである。<略>ある日、イギリスのヨークシャー・テレビが汚染のパターンを調査し、大変に濃厚な汚染を起こしている海域を長時間番組で放映した。83年には、浜辺に廃棄物が打ち上げられるという事件が起こり、海岸線が数十キロにわたって立入禁止にされ、やがて住民がパニック状態に陥った。やがて、さまざまな形で、白血病で死んでいった子供たちの実態が報告され、被害者の両親が再処理工場を告発している事実が掘り起こされてきた。<略>白血病が、子供たちのあいだに大量に発生していた。”デーリー・ミラー”だけでなく、”タイムズ”あるいは”デーリー・テレグラフ”も、このような記事を一面トップに揚げて報道を開始した。”タイムズ”はイギリスでも最も保守的な新聞だが、それが1990年に、死を宣告された白血病の子供をこのように紹介したのである。


H18.3.24 読売新聞・朝刊より
  志賀原発 運転差し止め判決
   原告も「信じられない」北陸電・国ぼう然

 (3月)15日に運転が始まったばかりの北陸電力・志賀原発2号機に24日、運転差し止めの初の司法判断が下された。「(想定を超えた地震で)防護が有効に機能するとは考えられない」と断じた金沢地裁の判決。<略>国内最新鋭の北陸電力志賀原発2号機の運転差し止めを認めた金沢地裁の判決は、国による原発の安全審査の妥当性をほぼ完全に否定する内容だ。この判決が確定すれば、全国55基の原発の多くが一時的に運転できなくなる恐れがある。<略>原発の設置許可は、原子力安全委員会の指針に基づいて、原子力安全・保安院の1次審査と原子力安全委員会による2次審査を経て決定される。指針は20年以上も昔に策定されたもので、内容を厳しくする方向で見直し作業が進んでいる。判決には、見直し作業の内容を先取りしたような部分があることも事実だ。
震源を特定しない直下型地震の規模がマグニチュード(M)6.5では小さいという指摘は、早くから専門家から出ており、見直される方向だ。また、建屋や機器の揺れの解析に使用する基準地震動を想定する手法「大崎の方法」も1979年に大崎順彦東大教授(当時)がまとめたもので、時代遅れという声がある。


同夕刊

 裁判では、@2号機東側を通る「邑知潟断層帯」(約44キロメートル)をどのように評価するかA国の原子力委員会が1978年に策定し、現在の原発設計の基準となっている「耐震設計審査指針」が地震の危険性を過小評価していないか――が主な争点となった。<略>昨年3月に国の地震調査委員会が「マグニチュード(M)7.6程度の地震が30年以内に起きる可能性は2%」と好評した邑知潟断層帯などに対する同2号機の耐震設計を検討。@M6.5としている直下地震の想定が小規模過ぎるA考慮すべき邑知潟断層帯の地震を考慮していないB昨年8月の宮城地震で癌万丈の揺れが耐震設計の最大想定を上回り東北電力女川原発全3基が自動停止するなど、原発敷地での地震動を想定する手法に妥当性がない――などの問題点を指摘し、「北陸電力側の想定を超えた地震で事故が起こりうる」とした。


2006.3.25 読売新聞・朝刊一面広告より
  高レベル放射性廃棄物は国民一人一人の課題


同社説より
  科学技術を否定するものだ

 原子力に「絶対安全」を求めた問題判決と言えるだろう。あり得ない状況まで想定していは、どんな科学技術も成り立ち得ない。


2006.3.28 読売新聞・朝刊社説より
  今度こそ確実に実現したい

 日本の原子力発電所でプルトニウム燃料を本格利用する時代が、やっとみえてきた。九州電力が佐賀県の限界原子力発電所3号機で計画しているプルトニウム燃料利用の「プルサーマル」について、県と地元の玄海町が受け入れに同意した。これで実施に向けた手続きは完了した。<略>プルサーマルの安全性は、従来の原子炉の運転と、そう変らない。これまでのウラン燃料でも、運転中にプルトニウムが出来て、プルサーマルと似た状態になる。フランスが21基、ドイツが15基の原子炉で実施するなど、海外では定着している。大きなトラブルもない。<略>わが国は、国策として核燃料サイクルを推進している。使用済み核燃料中のプルトニウムを再処理工場で回収して、燃料に使う。ウラン資源の節約になる。放射性廃棄物の量が減る。使用済み核燃料も、ためずに、処理できる。


1976.1.9 岩波新書 武谷三男編「原子力発電」より

 再処理工場というのは、一種の化学工業プラントである。工程中の物質の移動は、主として液体にして行われる。化学工場にありがちな配管などからの漏れが当然生じるであろう。化学工場と違って、この漏れはただちに環境への放射性物質の放出ということを意味し、重大な事故となる。<略>また有機薬品やドデカンなどの火災あるいは爆発をおこしやすい物質を大量に扱っているので、その対策も十分とられていなければならない。また、扱う物質は強い放射能をおびた物質なので、運転保守はすべて厚いコンクリートの壁をへだてての遠隔操作によらねばならぬという困難が伴っている。故障がおこっても、接近して修理するといったことは簡単にはできないのである。また、臨界事故と呼ばれる原子力施設特有の事故がある。ウラン235やプルトニウム239などの核分裂性物質は、ある量(臨界量)以上集まると核分裂をおこす。再処理工場では有機溶媒のなかにこれらのウランやプルトニウムが溶けている。これらの有機溶媒は炭素や水素といった中性子の減速材として都合のよい性質をもった原子核からできているので、核分裂はたいへん生じやすくなっている。こうして臨界事故がしばしば記録されることになる。たとえば、アメリカのアイダホの再処理プラントでは、1959年10月と1961年1月の二回、臨界事故が記録されいている。<略>原子力発電の環境安全問題のかなめをなすものは、核燃料再処理工場の環境安全問題であるといえる。たとえ平常時における原子力発電所そのものの放射能放出を低減させたとしても、再処理工場からの放射能を放置してあるのでは、せっかくの努力も無意味になるであろう。<略>気体廃棄物とくにクリプトン85を、再処理工場では一日に8000キュリー放出する。一方100万キロワット級のBWR型原発では、一日あたり150キュリーである。すなわち再処理工場の放出量は原発のそれの五十倍以上である。


2006.4.1 読売新聞・朝刊より
  核燃サイクル本格始動へ

 使用済み核燃料からプルトニウムとウランを抽出する商用再処理工場が31日、実物の使用済み燃料を使う最終試運転を始めた。<略>原子力発電が「トイレなきマンション」との批判を浴び、電力業界が日本原燃の前身を設立したのは1980年だった。五年後に青森県六ヶ所村が再処理工場の建設地に決定。建設地は、大規模工業基地を建設する「むつ小川原開発」の頓挫で同県が抱えていた塩漬けの土地だった。建設費用は7600億円から2兆1900億円に膨らんだ。一方、地元には巨額の”核燃マネー”が流れ込んだ。93〜04年までに原燃が同県に納めた核燃料税は604億円。同村にも198億円の電源3法交付金が入った。しかし、県内の有効求人倍率や県民所得は当時も今も全国最低水準。十分な経済効果があるかどうか、議論は分かれる。


2006.4.16 NHKスペシャル「汚された大地で〜チェルノブイリ」

 1986年4月26日、ソ連・チェルノブイリ原発の爆発事故が発生した。<略>事故の現地や周辺地域が現在、どのような状況に置かれているかを丁寧にリポートする番組が、発生から20年という節目の年に政策された。そこで示される内容は恐ろしいものばかりだ。事故処理に携わったため被曝した人々が集まって暮すウクライナのアパート群では、50歳を前に、がんや心臓病などで死ぬ人が相次いでいる。また、先天的異常を持った子供の増加は、被曝の遺伝的影響も示唆しており、事故が今も現在形のまま進行しているという事実を突きつけてくる。目に見えない放射線が20年の年月を経てもなお、被曝者の体をむしばみ続ける。その悲しい過程を見れば、誰もが「こんな事故はもう二度と起こしてはならない」と、改めて強く思うのではないか。


2006.4.21 読売新聞朝刊より
  原発データ改ざん問題 東芝社長を厳重注意

 東京電力と東北電力の計3基の原子力発電所で冷却水の流量測定装置のデータを東芝が改ざんしていた問題で、経済産業省原子力安全・保安院は20日、東芝の西田厚聡社長を呼び、厳重注意するとともに、5月19日までに再発防止策を提出するように指示した。<略>「今回の不正は、東芝の安全文化のあり方に疑問を抱かせるもので、原子力施設への信頼を揺るがした」として厳しく注意した。東芝は、データ改ざんは1基だけとする内部調査結果を発表したが、その後、相次いで新たな改竄が明らかになり、調査のずさんさも問題になった。



H18.01.22
■お野菜と自他共楽
自他共楽応援団長の大番頭としては、よそさまからご親切を頂いたら、素直に「ありがとう」が基本…であるべきですが、「いえ、結構です。」ということもしばしば。
近所の何軒かのスーパーでのことですが、こちらのスーパーで長ネギや大根を買うと、レジの人に必ずといっていいほど「半分に切りますか?」と尋ねられます。長いままだと、袋からはみ出して持ちにくかったり、冷蔵庫にしまう時を考慮して尋ねてくれているのだと思うのです。が、大番頭は即座に「いえ結構です」。
それは、お野菜は切り口から傷むので、一日で使い切れずに余ったため後で使う時に、余計に切り落とさなければなりません。日持ちもしなくなります。長いままなら、新聞紙にくるんで涼しい場所に置いておいたら、結構持つためです。
ついでに大根についても「いえ、結構です」があります。スーパーには真っ白スベスベの大根ばかりが並びますが(大番頭の足は、太さで勝ちますが「真っ白スベスベ」で負け)、本当は泥つきのまま置いていてくれたら助かるんです。だって、泥つきだと、本当にいつまでも持ちますから。人参もしかり。それに根っこを食べる野菜は、泥つきの方がおいしそうに思えるのは大番頭だけでしょうか。
大番頭以外の多くの消費者のニーズに堪えて、大根も人参も泥をきれいに落とし、長ネギは半分に切り、とっても気遣いにあふれているのに、大番頭はいつも「いえ、結構です。」の気持ち。気遣いをしてくれる方には、「おそれいります。」ですが、自他共楽を、「人」ばかりでなく「お野菜」にも広げることも大切と思います。大地のめぐみに感謝して、ありがとうの気持ちで戴く。お野菜に「楽」の気持ちなどないでしょうとおっしゃるなかれ。お野菜の本来の姿は、いきいきとうれしそうなものです。いきいきとみずみずしいお野菜は、わたしたちを健康にシアワセにしてくれます。やはり、自他共楽は人と人との間ばかりでなく、自然の恵みをも含めましょう。どうですか?



H18.01.15
■思い出の駅
日曜日の朝。少林寺拳法の練習に向かう大番頭、電車がくるのをホームのベンチに腰かけて待っていました。立って電車を待てばいいものを荷物が多かったため、横着して座って後悔・・・。お尻がつめた〜い!真冬のベンチですからね。
だけど、冷たいベンチに腰かけてふと思い出しました。大番頭の父方の田舎、静岡にある東海道線用宗駅のホームを。
用宗駅のホームは乗降客数のわりにゆったりとしたつくりのホームで、整えられた植木と、大番頭の父方のお墓のある山が見渡せ、温暖な静岡の空気に包まれて、実にのどかないい駅なんです。また、用宗駅ホームのベンチには、色とりどりの座布団が敷かれており、それがいっそう駅の空気を暖かくしていました。座布団は、おそらく地元の主婦やおばあさんが、残り布などを使って手作りしたものなのでしょう。色や柄はまちまちですが、どこかのおうちに眠っていた布が、駅を使う人たちの役に立って、おしりの温かさといっしょに心も暖かくなる座布団が、全てのベンチにかわいらしく敷かれているのです。
おそらく、用宗の駅だけでなく地方の駅のホームには、そんな手作り座布団のあるベンチがまだまだたくさんあると思います。大番頭が一人旅をしていた頃、そんなホームを何箇所も見てきた記憶があるからです。
ですが、同じ座布団を都会の駅のホームに置いたとして、果たして気持ちよく使ってもらえるものかどうか。大番頭は甚だ疑問です。街の駅のホームなら、3日もしないうちに座布団は誰かに持ち去られるのではないか、残念ながらそう思えて仕方ありません。見ず知らずの人の気持ちを、温かい気持ちで受け取って、また別の見ず知らずの人に譲る。地方も都会も関係なく、そんな気持ちはがあれば、自他共楽は簡単なことなのでしょうが・・・。
用宗の、あの色とりどりの座布団つきベンチを思い出したら、なんだかとっても用宗に行きたくなりました。用宗は漁港もあって、おいしいものがたくさんあって、本当にいい所です。いかがですか?おでかけになりませんか?



H18.01.14
■新年の抱負
往年の名女優、原ひさ子さんが昨年12月に亡くなられました。御年96歳。「おばあちゃん女優さん」として、映画だけでなくテレビでも活躍され、溶けてしまいそうな柔和な笑顔が、とても印象的でした。先日の新聞で、その原ひさ子さんの最期のことが書かれていたのですが、愕くと同時に羨ましくなりました。原ひさ子さんはその日、お昼にカツサンドを食べて、「笑点」を見て大笑い、夕食にはギョウザと八宝菜とご飯を一膳食べて、「ごちそうさま」と言ってそのまま、眠るように亡くなられたということです。スゴイ!「お笑い」にお腹を抱えて、「満腹でうたたね」という至福のうちに天国へ旅立つなんて、最高の「最期」ではありませんか!大番頭もあやかりたいなぁ。やはりそんな人生の幕引きが出来たのは、原ひさ子さんが生涯現役を通したご褒美ということでしょうか。毎朝5時すぎに起き、会社が始まる月曜日が憂鬱なんて言っている大番頭は、まだまだ修行が足りないですかね。
だるまる主人のおかげで、これまでの人生よりずっとお年寄りのことを伺い知る機会が増えましたが、それでも自分の先々のことは見えません。心穏やかに、はたに迷惑をかけずにニコニコ三途の川を渡れたらいいなぁと思っても、そうは問屋が卸さない…カモ。
先ほどまで、「東海地震が近い!」などとテレビで言ってました。何が起きてもおかしくない今の世の中。命ある限りは現役と思って、怠けずに生きていくということが先決ですね。…でも、大番頭どうかすると怠け心がむくむくわいて…。せめて、だるまる本舗はマメに更新しないとね。本年もよろしくお願いします。



H17.12.03
■誇りと恥
日本人の道義とか倫理は、どこへ行ってしまったのでしょうか。
耐震強度偽装問題で、およそ関わりのあった人間たち須らくが、あの盗人猛々しい態度。"盗人"よりまだひどい。あの連中は一つ間違えば"殺人者"となっていたわけですから。どういう精神構造をしているのか。許しがたいです。
かつての日本人には美徳があったはずです。己の仕事に対する誇り。金を稼ぐのだけが仕事ではないでしょう。私利私欲を肥やすためなら、何をしても構わないなどというのは、ごく一部の悪人の言い草であって、たとえそれがやむを得ずしたことにせよ、世間にそれが露呈したら、深く頭を垂れ、反省するのがマトモな人間のすることではないでしょうか。
他人のせいにして恫喝までする、あの厚顔さにニュース番組を見る気さえ失せます。
―――この事件の登場人物にかぎりません。
ここ最近テレビを賑わす人物は、政治家、官僚といった社会的地位のある人間ばかりか、そのへんの普通の女の子さえもが「お金のために、人を騙すことなどなんとも思っていない。」と公言して憚らない。そういったことが人として「恥ずかしい」といった感覚を持ち合わせていないのです。
恥を知れ!
数学者の藤原正彦氏が、読売新聞のコラムに以下のような文章を書いています。「利害得失がすべての市場経済では、勝つことだけが至上の目的となる。そのため、生き方の美学は顧みられなくなった。ケダモノの世界になった。」と。
本当のケダモノの世界でさえ、自然の規律や秩序が保たれています。ニュースを飾る日本人の愚かさは、ケダモノにも劣ります。

大番頭が懸念する原子力発電所の安全も、人間が管理している限り不安は拭いされません。マンションやホテルよりもっと利潤の高い、国家レベルの事業です。さらに大きなお金が動き、原子力という難しい技術を隠れ蓑に、好き放題されていることに気づくのは、大きな事故が起こってからでしょうか。まきぞえで死ぬのはごめんです。けれど、同じ日本人ゆえに、等しく罪を背負わねばならないのでしょうか。



H17.11.02
■正義と礼儀
少林寺拳法の練習の中で、鎮魂行を行うことを以前ご紹介したことがありますが、第四条まである信条の中で大番頭が特に気に入っているのが次の第三番目の信条です。

   我らは、正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、
           平和を守る真の勇者たることを期す。

こどもたちが大好きなヒーローもののテレビ番組で必ずテーマになっている≪正義≫に加え、≪平和を守る真の勇者たることを期す≫。
日曜日のこども向け番組に熱心なだるまる主人を白い目で見ている大番頭ですが、≪正義≫や≪勇者≫が大好きなところはあまり大差ないようです。
ですが、大番頭がこの信条を気に入っているのには、もうひとつ理由があります。 それは≪平和を守る真の勇者≫は、≪人道を重んじ≫、≪礼儀正しく≫あらねばならないという、この部分。現実の世界で、平和を守るために戦わなければいけない相手は、怪獣や怪物ではありません。今この瞬間に戦場で流されている血は、血を流した人々と同じ姿をした人間によって流された血です。平和を守るために戦う我々が手にする武器は、敵対する相手に勝る武器ではなく、≪人道≫と≪礼儀≫だということが、だるまるの心を打つんだなぁ・・・。

先日道場で学科の時間に、少年院に勤めてられる先輩拳士からこんな話を聞きました。
少年院に入所している少年たちにも、一般の社会といっしょで、リーダーともなれば、人望が厚くなければなれず、リーダーに対して礼を失すれば、即刻グループから締め出されるそう。もともと一般社会の常識や通念から外れてしまったからこそ、矯正施設にやって来たはずなのに、そんな場所でさえ人間は、≪人道≫や、≪礼儀≫から外れることはできないことを、あらためて思い知らされました。日常生活で≪人道≫などという言葉を使うことは、全くといっていいほどありませんが、漠然とした不安や、先の見えない焦燥に満ちた今の時代に、道場での一瞬でも、≪人道≫を口に出来ることを幸せに思っています。
普段口にしないから、忘れてしまってもいいというのは誤りです。今の世の中、オモテに出ないことの方に、大切なことが隠れているということがたくさんあります。
人道の言葉もそのひとつ。信条を唱和しながら、そんなことを考えてしまうだるまるでした。



H17.10.30
■愛犬は家族
大番頭の実家のごんすけが、近頃お年のため体調を崩すことが多く気がかりな日々なのですが、友人の愛犬ロボちゃんは、心無い人に連れ去られて早や9ヶ月になろうとしていますが、何の手がかりもなく、ご家族の方は大変心を痛めています。大番頭、遅まきながら本日のトップページでロボちゃんの写真を載せ、こちらにお越しの方に呼びかけることにしました。
友人は、警察や保険所、新聞など、ありとあらゆるところに捜索願いを出していますが、なかなか消息がつかめないでいます。もしこのホームページをご覧になって、ロボちゃんらしきわんちゃんを見つけた方がいらっしゃったら、どうかお知らせ下さい。

こちらは、友人が作った捜索ポスターです。
     please click!→ヨークシャーテリア探しています

よろしくお願い致します。



H17.10.01
■自他共楽のお手本
自他共楽のお手本のような人に出会いました。いまどきの人に似ず、ご近所さんに朝晩の挨拶を欠かさず、争いごとを好まないで、晴れた日には洗濯に精を出し、頼まれごとにはイヤな顔せず応え、笑顔と元気を振りまいて、困った人に手をさしのべ、それでいて相手に負担をかけるような気の遣い方をしない・・・そんな自他共楽の模範生です。もし世の中がこんな人ばかりなら、どれほど気持ちよく暮らせるでしょう。悲しいけれど、他でこんな人にはお目にかかったことがありません。そんな模範生を、大番頭が独占しているのが申し訳ないかぎり。模範生、先ほどまでテレビを見ながらウトウトしてましたが、お風呂上りに使ったマグカップを洗いにいそいそ台所に行っちゃいました。感心。



H17.09.24
■他者の中の自分
先日道場で大失敗しました。
大番頭、少林寺拳法の練習が近頃ウィークデイに行けないため、日曜・祝日の朝9時からの練習のみ出席しているのですが、天気のいい休日の朝は主婦魂が目覚めてしまい、出掛けにツイ家の用事をしたりして、電車1本遅れてしまいます。布団を干したり、乾かし足りない洗濯物を出してみたり、朝ご飯の片付けを始めてみたり。なぜか「もう行かなきゃ」という時間になってバタバタして、1本早い電車に乗れません。←コレ、だいぶ反省しているのですが、早く起きても変らないので(早く起きた分、する仕事を増やしてしまい・・・)先生に本当に申し訳ないです。 「早く出られないとは、気合が足らんゾ!」と自分に喝を入れて、電車を降りたら急いで道場へ向かうのですが、到着はどうしても9時をまわってしまい、慌てて着替えるのが常なのです。

ところが、大番頭が遅刻をしてくるせいか、多くの拳士が9時からの練習に間に合わず道場に入ってきます。そのため以前練習していた頃より、練習開始時間がずっと遅くなってしまいました。大番頭が1本電車に乗り遅れて道場に到着しても、基本練習の最初から練習できてしまうのは、開始時間が以前より遅くなっているせいなんです。多くの拳士が自転車や徒歩で来られるくらい道場の近くに住んでおり、電車で練習に来る拳士も2・3駅程度の近距離なので、学生拳士や自宅からやって来る男性拳士などが遅刻してくると、正直「むむぅ・・・!?」というカンジです。ましてや、入門間もない拳士が基本練習が終わってから、ゆうゆうと道場に入ってくると、大番頭は自分の遅刻も棚に上げ、瞬間湯沸かし器型の脳ミソがイキナリ沸点に達したりします。少林寺拳法は基本練習がすごく大切です。基本練習をおろそかにし、基本練習が終わる頃涼しい顔をして入ってくる拳士を見ると黙ってはいられない気持ちなんです。

「なんで基本練習から来られないの?!」と、ある日黒帯拳士に迫りました。その拳士はいつも、基本練習が終わった頃に、ダラダラと荷物を引きずるように道場に入ってくるのです。先輩拳士が誰も注意しないのに、つい大番頭がでしゃばってガツンと言ってしまったのです。その黒帯拳士は大番頭の剣幕にたじろいで、小さくなって「すみません」と頭を下げました。
ところが失敗しました。
このあと先輩拳士から聞いたのですが、「あの拳士は、夜間のバイトをしていて基本練習が終わる頃にしか来られないんだよ。」とのことなのです。大番頭は、その黒帯拳士の事情も知らないのにイキナリ雷を落としてしまったというわけです。
「そうだったの?!それは悪いことをしたー。」と、自分の早とちりに顔が赤くなりました。大番頭に叱られて、何か言い返したそうだった、その黒帯拳士の表情を今さらながら思い出しました。
ですが、ちょっと待てよ?もしそんな事情があるなら、その拳士は大番頭にきちんと説明すればよかったのではないのか。こどもではないのだから、理不尽なことを言われたらきちんと汚名を濯ぐべきではないのか。・・・時間が経って、ふつふつと大番頭にそんな思いが湧いてきました。

大事なことを話さず、お腹に「悔しさ」だけを溜め込んで誤解を通したままでは、何も生まないと思います。誤解を晴らすことは、自己の胸のうちをすっきりさせるだけでなく、他者にとっても、反省や理解を学ぶきっかけになります。相手の間違いを正すことは勇気がいります。ですがそれを怠っていては、いい人間関係は結べません。自他共楽を実践することもできません。
大番頭に早とちりの罪はあるものの、色々と考えさせられました。

この一件ではもうひとつ感じたことがあります。
それは、いくら遅刻した黒帯拳士に、やむにやまれぬ事情があったにせよ、黒帯である以上、定刻より遅く参座するのであれば、きちんとした態度で道場に入るべきだということです。その拳士が荷物を引きずるようにしてダラダラと道場に入ってきたのは、徹夜明けのため体調が悪かったせいだそうですが、他の拳士が見たら単にダラダラしているようにしか見えないかもしれないのです。(現に大番頭はそんな風に誤解しました。)誰も個々の事情など分かりません。ですから、自分の態度がどんな風に他人に見られているか、影響を及ぼすのかを考えることも自他共楽を考える上で大切な側面だと思います。

自他共楽は、他者に対して何かをしてあげるというだけでなく、他者の中でどう自分があるべきかを配慮することも含んでいるのです。

大番頭も知らず知らずに、遅刻者を増やしていたら怖いことです。ここに書いた以上、ホントに遅刻しないよう頑張らないとなぁ。だるまる主人に託す家事が増えそうだけど、精一杯ゴマをすっておこうっと。・・・これでいいのかな?だるまる主人に「自他共楽じゃないの?」と言われそう。



H17.08.06
■江戸しぐさ(働く)
ニートと呼ばれるひとたちが、社会問題になっています。
働く能力があるのに職につかず、社会から孤立して、保護者の庇護のもとで何もせずに暮らす人たちが、たいへんな数に上っているのだそうです。能動的に動かないニート本人にも問題は大有りですが、それを許している家族にも問題はないのでしょうか。とかく識者と呼ばれる人たちは、ニートの増大を社会のせいにしていますが、社会をつくっているのは個々の普通の人たちです。顔の見えない不特定な社会のせいにして、目の前の問題を棚上げしている限り、ニートたちが目を覚ます日は永久に来ないのではないでしょうか。
江戸しぐさの本に「働く」とは、「はたをラクにすること」という一節がありました。「はた」=まわりをラクにすることをして、「働く」というのだそうです。
江戸時代のお店(=たな)の主人の一日は、朝食前に洗面、身だしなみ、神仏へお参り、そして近所のお宅の様子を見てまわり、店が綺麗に整ったことを確認してはじめて朝食。午前中の3時間は商いに精を出し、午後は朝食前に見てまわたった近所で起こった困りごとを解決するために、病人を見舞ったり、役所へかけあったりと忙しく過ごしたそうです。夕方からは明日の準備をし(「明日の準備」が「あそび」に転じたそうです)、初めて自分の時間を持てました。
ここで大事なのは、江戸の町人の「働く」は、商いをする午前中の3時間をいうのではなく、午後近所の人々の困りごとに手助けして回ったことをして、「働く」といってるということです。はたをラクにするとは、お金(=あし)をもらって自分を肥やすことではなく、見返りを求めず人のために動くことをして、働くと言ったのです。
現代の人たちは、「働く」の本当の意味を知らないのだと思います。お金をもらうために労働を提供することではないのです。都会の一等地に大きなビルを持つほど、たくさん稼いだからといって「よく働いた人」ではありません。いかにたくさんの人のために働いたかが、本当に働いたことになるのです。そういう意味で、ニートではないわたしも、本当に働いているということにはなっていません。お金のために働いているだけですから。
江戸時代にはボランティアという言葉はありませんでしたが、現代よりも江戸時代の方がよっぽどもボランティア社会だったのではないかと思います。
「はたをラクにするために働く」―――はたを苦しめて、はたを働かせているニートの人たちには、そこのところをしっかりとみつめなさいと言いたいです。そしてニートを抱える家族の方にも、お金を稼ぐところがないからと、問題を社会のせいにして許容してはいけないです。家族は、断固とした態度で大切な家族に「働きに出ろ」と言うべきです。お金をもらえなくても、「働く」場所はたくさんあるのですから。



H17.07.24
■江戸しぐさ(閑話休題)
今日も《江戸しぐさ》ではじめようと思いましたが、ちょっぴりお休みしてこんな話。
大番頭が現在勤める会社のビルは、グループ会社の持ちビルでして、グループ会社の社員の方も多いのですが、大番頭のような派遣社員や契約社員もたくさんいて、年齢も立場もさまざまな人たちが集っています。にも関わらず、こちらの会社では、全く知らない事業所や部署の人にも、朝は「おはようございます」、帰りは「お疲れさま」などの挨拶を、お互いにさりげなく言い合っていて、カッコいいんです。以前、この自他共楽の頁で、「おはようございます」の挨拶がないことを嘆く文章を書いたことがありますが、今の会社では毎朝たくさんの「おはようございます」が聞けて、とっても気持ちがいいんです。会社ばかりでなく、出勤の際、近所の方は会えば必ず「おはようございます」が返ってきます。今のすまいを探すために、たくさんの不動産屋さんを回りましたが、契約には至らなかった近所の不動産屋さんまで、会えば「おはようございます」を言ってくれます。この気さくさが、実に心地いいのです。
その不動産屋さんの裏道に、いつも仲良しの白とトラの子猫が道に寝そべっているのですが、会社帰りでひーふーしてる大番頭に、2匹がいつもじゃれて来ます。子猫までもが「おかえりなさい」と挨拶してくれるみたい。

めずらしくいい話でしょ?



H17.07.17
■傘かしげ
昨年、この「自他共楽」のページで、大番頭こんな話を書きました。
「雨の日に前から歩いてくる人とすれ違う時、向かってくる相手と逆側に傘を傾げる人が最近めっきり減りました。女性が小首を傾げるように、傘をそっと反対側に傾げるポーズは美しいしぐさと、だるまるは思うのです。」
うっとおしい梅雨の季節に、往来の邪魔になろうとも平気で傘を正面にさして歩く人々に業を煮やして、ツイ書いた文章でした。
ところが1年経って、今年の5月7日の読売新聞に、これと全く同じことがとりあげられていてびっくりしました。
その記事の冒頭は「雨の日。傘をさして路地を歩いている。向うから同じように傘をさして歩いてくる人がいる。このまま行けば傘同士がぶつかってしまう。さてどうしますか。」
この問いかけの正解はだるまるが昨年の自他共楽で書いた通り、「傘を外側に傾けてすれ違う。」が正解。ヤッタ!
この「傘を傾ける」所作には実は名前があるそうです。

   「傘かしげ」

「傘かしげ」は、「江戸しぐさ」と呼ばれる江戸の町人たちが人間関係を円滑にするために用いたマナーや心得のひとつで、江戸の大人たちの間では常識として身についていたルールだったのです。
それにしても「傘かしげ」、「江戸しぐさ」、どちらの言葉も粋で美しいですよね。
だるまるは新聞の記事を読んですっかり「江戸しぐさ」に惚れこんでしまいました。「江戸しぐさ」について書いておられる越川礼子さんの著作をアチコチ探しました。
図書館で借りた越川礼子さん著「身につけよう!江戸しぐさ」を、だるまるはまだ読み途中です。
途中ですが、この「自他共楽プラン」でご紹介したいことが次々に出てきて困ってしまうほどです。
次回も「江戸しぐさ」について書いていこうと思いますので楽しみにしてください。
そうそう、「傘かしげ」の他に、既にだるまる本舗で取り上げていた「江戸しぐさ」を紹介します。それは、往来ですれ違う時に、体を半身(はんみ)にして道を譲る所作を紹介した内容で、この所作を「江戸しぐさ」では「肩引き」「腕引き」というのだそうです。
肩を引いて、すれ違いざまに相手にぶつからないよう道を譲る気遣いは、武道の上でのたしなみと思っていましたが、市井におけるマナーとして江戸の人々に根づいていたというのには驚きました。「肩引き」ができれば、コワイお兄さんに因縁をつけられることがなくなるのはもちろん、道を譲る行為は誰の心をも暖かくしますものね。
現代人が出来ない所作を、スイスイこなしてしまう江戸時代の人々は、現代人よりずっと文化レベルが上だと思います。現代人がハイテクを誇ったとしても、簡単で大事なことが欠落しているようでは、ご先祖様に申し訳がたちません。(江戸しぐさっぽい言い方ですね)江戸しぐさで、自他共楽。コレかなりいいですよ。



H17.06.05
■6月1日のニュース
双子山親方(元大関貴乃花関)が亡くなられた翌朝、読売新聞の一面を飾ったのは、双子山親方の訃報ではなく、高速増殖炉もんじゅ訴訟・市民側逆転敗訴のニュースでした。テレビ報道では、圧倒的にかの名大関の訃報が大勢を占めていましたが、これからの日本を考える上では、もんじゅ裁判の最高裁の判決による後遺症はいかに大きいものか、肝に銘じるべきとだるまるは考えています。
一昨年、名古屋高裁においては、「具体的危険性を否定できず、安全審査の見直しを必要とする」として、住民側勝訴の判決が下されていました。それにも関わらず、安全審査に重大な違法があったと指摘した「ナトリウム漏えい事故の対策」や「蒸気発生器の伝熱管破損事故」、「炉心崩壊事故」に対して十分な検討を試みないで、被告である行政側の提出データと従前の訴訟記録だけから、「安全」との判断を下し、早期の再開を求めるもんじゅ側の言い分を100%後押しするような結果となったわけです。『二審判決が切り開いた安全審査の実態に踏み込む判断を回避したことは、重大な司法の怠慢』であると、原水爆禁止日本国民会議の声明文にも書かれてありました。まさしく司法と行政とのなれあいの露呈であり、だるまるには、このムカムカは抑えようがありません。高速増殖炉は、オッソロシク危険であり、金喰い虫の役立たずプラントです(原子炉を止めている間の維持費でさえ年間64億!)。そんなことは世界中のどの国の学者も、政治家も周知の事実なのです。今の日本人の多くは、行政や電力会社のコマーシャルを鵜呑みにして「安全だと言ってるし、エネルギーは大事だからもんじゅも必要でしょう」と思っていますが、ちょっと書籍やネットで調べれば、バカげた事実に次々と出くわすのです。――悲しいことですが。
一時代を気づいた、偉大な大関の訃報も、確かに大きなニュースでありますが、マスコミがヒステリックにひとつの報道ばかりを垂れ流している裏で、着々とよからぬ動きが進行しているのです。気づいた時には遅すぎるのです。
日本の借金が888兆円とのニュース、あのナゾのピアノマンのニュースほど流されていますか?だるまるはピアノマンの正体より、888兆円の借金の正体が知りたいです。問題は原発だけではないのです。日本は一体どうなってしまうのでしょうか。・・・はぁ。



H17.05.29
■また来ます
大番頭はしまり屋です。お財布のひもがとってもとってもかたいのです。もともと洋服を買いに出かけることも少ないのですが、季節の変わり目でどうしても一着必要な時でさえ、手ぶらで帰ってきたりします。あっちの店に入り、こっちの店に入り、ひと駅歩いて、別の店で試着してみたり。だるまると命名したものの、このだるまるっとした体形をスラッと見せる服を探すのは(しかもお安いお値段で)並大抵の苦労ではないのです。とほほ。・・・で、普段からずーずーしい大番頭でさえも、散々見て回った店で、何も買わずに出るというのは勇気がいるのです。だるまるもお若い頃は、今ほどずーずーしくなかったので、少し気に入らなくても、「店員の人に悪いな」などと思って、財布のひもをゆるめたりすることもありました。ですが、そんな風にゲットした服というのは、どこか気に入らなかったりするんです。サイズが合わなかったり、色が少し気に入らなかったり。着ないままタンスに押し込めるのは、けちんぼのだるまるにはツライことでした。
そこで、最近はいい手を見つけまして、なんなくお店めぐりをこなしております。それは、お店を出る時に「また来ます」とひとこと言うことです。なんだ、そんなこととおっしゃるなかれ。散々お店の品物を見て歩いて、次のお客さんが来るのを待って、入れ替わりにコソコソ店を出るよりは、はるかに気持ちいい立ち去り方なんですから!最近は、ちゃんと買い物をした時にも、いい買い物ができた時は「また来ます!」を言ってます。ひょっとするともう来られないかもしれないけれど、今のウレシイ気持ちを「また来ます!」にこめてみると、お店の人もちょっぴり嬉しそうです。お愛想みたいで気がひけますか?明らかに二度と来られないと分っている時はともかく、そんなお愛想を、お客さん側が言ってもいいような気がするんですが・・・。試してみませんか?「また来ます」。――プチ自他共楽でした。



H17.02.05
■家族と他人の差
いきなりですが、大番頭は情報システム系の会社で社会保険システムのインストラクターの仕事をしております。パソコン操作に困ったお客さんの問い合わせに答えたり、不具合が出た場合の対応(注:お詫び係)などをしております。インストラクターとはいえ、4月から施行される「個人情報保護法」は、会社人として大番頭もピリピリしている次第です。先日も個人情報の取扱いに関するガイダンスに出席してきたのですが、少しびっくりすることがありました。
健康保険の被保険者に定期的に届く「医療費のお知らせ」というのをご存知でしょうか。健康保険組合によっては作成していない場合もあるので、全ての方が目にしているというわけではありませんが、一定期間内にかかった医療費の明細内容が記された通知のことをいいます。
通常「医療費のお知らせ」は健康保険組合の被保険者の方に、世帯員全員分が記載されたものが送られてくるのですが、今後はその「〜お知らせ」も、家族全員に、それぞれ封緘して家族めいめいに届けられることになりそうです。
それは、同居世帯といっても家族員それぞれは「第三者」であるので、「第三者」である妻や子供の医療明細が(医療費だけでなく、診療した病院の情報なども)被保険者が知り得ることは、個人情報を保護するという観点にそぐわないという意味から実施される見通しになっています。
驚いたのは、家族が「第三者」という捉え方です。
家族の在り方が多様化して、同居の家族とはいっても病気などの個人情報が家族に知られることに問題があるケースが増えているというのが、家族を「第三者」と見なさねばならない理由だそうです。
これは想像ですが、例えば離婚調停中の妻が、被保険者たる夫に何らかの診療を受けていることを隠したい場合などが考えられます。今までの「〜お知らせ」では被保険者たる夫に、受診している病院などが分ってしまいますが、家族個々に「〜お知らせ」が届けば、妻の個人情報は守られたことになります。「医療費のお知らせ」を家族全員に発送する意味はここにあります。
・・・とはいっても、やはり家族が「第三者」という捉え方は、世知辛い今の世の中を象徴しているように思えてなりません。
昨日読んだ原田宗典のエッセイで「人が7人集まるとそのうちの1組は遠い先祖で血が繋がっている」という一節がありました。たったの7人が集まっても、遠い昔、血の繋がりのあった身内という捉え方もあるのに、同じ世帯に住んでいる家族を、社会的には「第三者の集まり」と捉えるのをみると、人間の目のおきどころは、その場その場でくるくると変るものだなぁと改めて感じます。
ついでにいえば、その個人情報のガイダンスで、健康保険組合と業務委託をしている業者は、健康保険組合から見て第三者ではなく、委託関係を結んだことによって身内関係にあるということになるそうです。
なんだか身内と第三者の差がどこにあるのか分らなくなります。
人間というのはその場その場を繕って、モノゴトの本質を見えにくくしながら、それを発展だの発達だのと勘違いしている生き物のように思います。
大番頭には、本当のことを心を澄ませて聞く耳が欲しいです。



H17.01.22
■わがやのゴミを他人の庭に捨てますか?(その3)
電力会社のCMのこんなフレーズ、耳にしませんか?
「原発は二酸化炭素を出さない環境にやさしいエネルギー」
「原発がなければ電力が足りなくなる」
近頃では主婦向けの雑誌や、OL向けのフリーペーパーにも、こんな電力会社の原発PR広告を見ます。
しかしどちらも、電力会社の大ウソです。
だるまるが「大ウソ」と断言する根拠をご紹介する前に、原子力発電の発電原理を少しご説明します。

原子力発電とは、何か特殊な発電方法をとっていると思われがちですが、実は一般的な火力発電と原理は殆どかわりません。火力発電が石油を燃やしてタービンを回し、電気を起こしているのに対して、原子力発電はウランを燃やして、その熱でタービンを回しているにすぎません。ウランを燃やすと書きましたが、厳密にはウランの核分裂によって発生する膨大な熱がタービンを回しています。この膨大な熱とは、膨大なエネルギーと書き換えられるわけですが、あまりにも膨大なために、殆どの熱を生かしきれずに(電力に変えることができずに)多くを捨てています。つまり大量の水で冷却して熱を捨てているのです。そのため原発は海のそばにしか建設できません。地震列島日本で、いくら地震に対する不安が高まろうとも、原発の立地条件は「海の近くであること」は外せないのです。(話が逸れますが、原発付近の海水はどこも上昇傾向にあると言われています。それによって生態系にどういう影響を及ぼすのか、多分人間は何百年も待たなければ結論を得られないのだと思います。この一点だけとっても、環境にやさしいエネルギーと言えるのでしょうか。)

ところで、原発で一番難しいのは、この核分裂によるエネルギーの制御です。ひとつ間違えば、広島・長崎で見せた原爆のエネルギーを発揮しうる核分裂のエネルギー制御は、大変難しいのです。出力を一定に保たないと、燃料棒に破綻を来たし大事故に繋がるために、夜間の電力使用の少ない時間帯には揚水発電を用いて余った電力を調節しなければなりません。原発を動かすためだけに、電力会社は揚水発電施設を建設しています。こんなばかげたことがあるでしょうか。このような事実を多くの人が知りません。
その上、原発は定期検査のために長期間運転を停止します。またわずかなトラブルにも弱いため、運転を止めている間の補助として火力発電施設が必要になります。つまり原発をつくればつくるほど、別の発電施設が必要になるわけです。無駄な発電施設を作るたびにエネルギーが投入されます。その際発生する二酸化炭素は、直接原発から発生しているわけではないかもしれませんが、二次的には二酸化炭素を発生しているとはいえないでしょうか。1つ目の「原発は二酸化炭素を出さない環境にやさしいエネルギー」は上の理由でウソといえます。

2つ目の「原発がなければ電力が足りなくなる」も、全くナンセンスです。上の文を読めばお分かりになる通り、わざわざ危険な原発をうごかさなくても、原発を動かすための揚水発電や火力発電をつくっているわけですから、それらの発電施設で電力を賄えばいいということにはなりませんか?
では実際には電力供給量というのはどうなっているのか。年間で一番電力需要の大きい夏場のピーク時でさえ、原子力発電に依存しなければならないほどの電力需要ではないのです。「プルサーマルを考える柏崎刈羽市民ネットワーク」の資料をご参照ください。

■原発無くても夏場も電気は足りる!?

だるまるは電力が足りなくなる不安など持ってはいませんが(今現在が完全な電力の無駄づかいと思っているので)、それでも原発の稼動している意味が全くみえません。原発はコストが安いなどと言う人たちもいますが、今後直面する放射性廃棄物の処理コストや地震災害や事故による保証費用などを考えれば割安だなどと思えません。その上、発電効率をあげるために、定期検査の期間を短くして設備利用率をむりやりに上げる、などという操作まで電力会社はしています。その結果として検査の際、重大な異常を見落とす危険性があります。また検査の期間が短いということは、原子炉の中に検査作業員が放射能の減衰を待たずに入るわけで、作業員の放射線の被曝についても非常に問題です。

・・・というわけで、ほんの少し取り上げただけでも、これほどウソにまみれているのが原発なのです。かつて高速増殖炉もんじゅで起こった事故やJCOの臨界事故などで、一向に真実が衆目に曝されなかったのは、ひとつ本当のことを公表したら次々とうそが暴かれていくことが、関係者には明らかだったからです。恐ろしいことです。

最後にこれだけは言わせてください。誰も報道しないからといって原発について目をつぶっていた方たちは、今こそ目を大きく見開く時期なのです。新潟の地震や、世界各地でのこの自然災害の猛威を見て下さい。原子力関係者の語っている「原発だけは安全です」の言葉を鵜呑みにして生活することができますか?「我が家のゴミを他人の庭に捨てろ」などという感覚の持ち主に、市民の身の安全を守れると思いますか?原子力推進者の自分本位体制は、自他共楽を謳うだるまる大番頭にはけっして許せません。本気で怒っています。
ただひとつ付け加えるなら、そんな腐った原発でも多くの労働者の方たちが、放射能の被曝に怯えながら懸命に安全を守ってきています。そんな方たちが、支えてくれているからこそ、わたしたちは電気の恩恵を享受し、安心して暮らすことができるのです。そういった方たちのためにも、不安のない生活を取り戻すことができるように、どうか力を併せて考えていきましょう。本当のことを見つめる目を養いましょう。だるまるも頑張ります。



H17.01.16
■わがやのゴミを他人の庭に捨てますか?(その2)
電力会社が原発をピーアールする際、よく口にするのが「原発は二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギー」という言葉です。
昨日も書いたように、原発はクリーンどころか、何万年も毒性を衰えさせない放射能を扱っています。燃料のウランは言うに及ばず、エネルギーに変えたあとの燃えカスのゴミでさえ多量の放射能を含んでいます。さらに放射能を含むのは燃えカスばかりではありません。原子力発電から出るゴミは、原子炉内部で働く人々の作業着やぞうきんに至るまでもが放射能を帯びています。そのため通常の事業所で出るようなゴミでさえも、放射性廃棄物として処分しなければいけません。これらを一般に低レベル放射性廃棄物と呼んでいますが、低レベルとはいえ毒性には変りがないので(半減期何万年レベルという意味で同じなのです)、厳重にドラム缶につめられ処分を待っています。
低レベル放射性廃棄物のドラム缶は年間2万本にも達しています。1997年の資料で累計100万本近くのドラム缶が最終処分を待っていました。保管能力が約160万本。
2005年現在、最終処分までのタイムリミットは刻々と近づいているのです。高レベル放射性廃棄物に加えこの低レベルの放射性廃棄物の最終処分については、いまだ原子力関係者は手をこまねいたまま、決定を下せずにいます。
最終処分場(おそらく地中埋設)の候補地では、市民の猛反発を喰らっています。「都会で出たゴミを、なぜおらがふるさとに押しつけるんだ!」実際の所、最終処分の候補地は、それほど電力の恩恵を受けていない過疎の地域ばかりなのです。人の少ないところなら、埋めても大きな反発は受けないだろう。そのような感覚で、秘密裏に最終処分の場所が決められつつあるのです。現在青森県六ヶ所村に中間貯蔵という名目で放射性廃棄物が送り込まれていますが、そのままなし崩し的に最終処分場として押し付けられることになるのではないかと、住民は夜も眠れない思いをしているのです。もしも地震などの災害が最終処分施設にダメージを加えたら、一体どんなことになるのでしょうか。青森の方々の心中を思うと言葉もありません。

しかしなお原発推進者は、「使用済み核燃料を再処理して(=リサイクルして)もう一度燃料として燃やそう!核のゴミを生かして使おう!原発は効率のよいエネルギーだ!」などと喧伝しています。
このようなウソを信じてはいけません。
「リサイクル」といえば聞こえがいいですが、使用済み核燃料を再処理して原発で再度燃料として使っても、所詮高レベルの放射性廃棄物を全部再利用できるわけではないのです。再処理しても多くの高レベルの放射性廃棄物が生まれるのです。再処理の行程で核のゴミが出、それを発電に使っても核のゴミが出。その上、再処理の回数を重ねれば、より高濃度の放射性廃棄物が誕生して再処理工場でさえ手がおえなくなるといいます。
こういった事実を全て伏せて、原発推進者は、原発利権の恩恵を受けたいがため、ただそれだけのために多くの善良な人々を騙しにかかるのです。
「再処理したら効率がいいから、どんどん電気を使おう。原発を増設しよう」などという人間たちは頭がおかしいか、利権に群がって巨額の金を手にしているか、どちらかしかありません。

よくよく、モノゴトの本質を見極めてください。電力会社の「何の裏づけもない安全神話」を謳った甘いパンフレットと、あらゆる数値データを明らかにした反原発を訴える人々の書籍と、みなさんはどちらを信じますか?
こと原発に関して、けしてヒトゴトではないのです。核のゴミはいずれ、日本列島に溢れ出し、我々の目の前につきつけられます。近づくこともできない放射性物質たちを前に、あなたはどうしますか?少なくとも電力会社は何もしてくれません。国も何もしてくれません。昨今のニュースで企業も国も、みな無責任だということは、いやというほど身にしみているのではないでしょうか。よくよく原発問題に関心を払ってください。
重たいテーマですが(その3)へ続きます。



H17.01.15
■わがやのゴミを他人の庭に捨てますか?(その1)
もしあなたの家の庭に、よその家のゴミがいきなり持ち込まれ、勝手に埋められたら、あなたはどんな気持ちがしますか?あなたが丹精こめてつくった庭に、見知らぬ者たちが土足で入ってきてその庭を掘り返す時、あなたはどんな気持ちでその姿を見ることができますか?さらに何年かして、「あの時埋めたゴミは、実は価値のあるものだったから掘り起こさせてくれ」とやってきた時、あなたは侵入者になんと答えますか?「はいどうぞ」と掘り起こすことを許しますか?
これらの問いに、だるまる大番頭はたったひとつの答えしか思い至りません。
わが家に他人の家のゴミが放り込まれるなんて、断固としてNO!です。
ところが、「よその家にゴミをおしつけ」、「あとになって掘り起こす」ことを平然と行おうとする人種がいるのです。それが「原発推進者」という人種です。

現在日本にある52基の原子炉で毎日大量の高レベル放射性物質がゴミとして生みだされています。ゴミといっても、普通のゴミのように燃やすことも埋めることもできません。高レベルの放射性廃棄物は、大量の放射能を帯びていますから、容易に処分などできないのです。ただただ巨大な冷却プールに静かに静かに眠らされ、一定の期間が経つとイギリスやフランスの再処理工場に送られているのです。使用済みの核燃料を再利用するために再処理工場へ送られるのです。
だるまるの手元資料によると、1998年に国内では8500トンを超える放射性廃棄物を抱えていました。多分2005年現在ではもっと大量の放射性廃棄物を抱えていることでしょう。が、それも日本の原発で生まれる放射性廃棄物の全てではありません。イギリスやフランスの再処理工場に送られている7000トン以上の放射性廃棄物が、今船に載せられ、静かに日本に戻りはじめてきているのです。余剰ウランが多くなり天然ウランの価格が下がって、コストの高い再処理のウランが経済的に見合わなくなったのです。そのため日本の放射性廃棄物が、イギリスやフランスから帰ってきているわけです。戻ってくる放射性廃棄物と、現在稼動している原発からつくられる新しい核のゴミを抱えて、日本は、近い将来核のゴミで一杯になるわけです。原発を動かせば動かすほど核のゴミは増えます。そしてまだそれらの最終処分場も決まっていないのです。「トイレなきマンション」。今の日本はまさにそんな状態なのです。

ある物理学者がこう言いました。「核廃棄物は中国やアフリカなどの広大な土地や、遺跡などでのそばで眠らせておいて、放射能レベルが低くなったら、掘り起こしてまた再利用すればいいんだ」
――そうです。その物理学者は、冒頭の「よその家にゴミをおしつけろ」のアノ論理を、多くの人の前で演説して平然としているわけです。
だるまる大番頭はこの演説を聞かされて、身震いが止まりませんでした。怒りのあまりにひっくりかえりそうでした。どこの世界に他人のゴミを喜んで引き受けるお人よしがいるというのでしょうか。しかも恐ろしい毒性を持つゴミをです。原発からでる高レベルの放射性廃棄物が、天然ウランの鉱石と同じ放射能レベルに下がるには、一万年以上かかると言われています。原子力関係者でさえ放射能が半分に下がるまで1000年は待たなければならないと言っているのです。それだけの長い期間、一体誰が、どうやってそのような危険なものを監視し続けることができるのでしょうか。
放射性廃棄物の中から抽出されるプルトニウムの毒性は、耳かき一杯で数万人を殺戮できるそうです。年間9000万分の1グラム以上を摂取するだけで、肺癌になります。プルトニウムの毒性は白血病や骨髄腫、肝臓癌などあらゆる癌を引き起こす要因となり、放射能の半減期は24,000年と言われています。放射能が半分になるのに24,000年(!)です。一体24,000年の保証を、このちっぽけな人間がどうやってできるというのでしょうか。原子力推進者は神にでもなった気でいるのでしょうか。
原子力推進者の傲慢と、いかに原発が無意味なプラントかを次回もう少し書いてみたいと思います。



H16.11.23
■ボランティアのこと
大阪のわが家は2間だけの文化住宅でした。引越の荷造りがすすむにつれダンボールの山が大きくなって、「この山が寝てる間に崩れてきたら、ひとたまりもないね」などと、だるまる主人と笑って話していました。そんな矢先に、あの新潟地震のニュースが飛び込んで来ました。驚きました。
宮沢賢治の「西ニ疲レタ母アラバ・・・」に倣い、新潟地震のニュースを聞いた大番頭が、現地へと駆けつけているのではないかと、知り合いからメールが届きました。おそらく、以前にナホトカ号重油流出事故で被害にあった丹後半島の浜に出かけたことを覚えていて、そんな風に買い被って下さったのだと思います。ですが、それは大変な誤解です。
だるまる大番頭は、決してボランティア精神旺盛というわけではありません。このページでは自他共楽を謳っておりますが、時間的金銭的に大きく負担を伴うような場合には重い腰が上りません。すみません・・・。新潟地震の報道にも、テレビの映像を横目に、引越荷物にうずもれていました。片付かない荷物でいっぱいの部屋を前にして、自宅が土砂に占拠された被災者の方々と自分を重ねて、「ただの引越でさえこれほどシンドイのに、新潟の方たちが、普通の生活を取り戻すのは並大抵の大変さではないだろうなぁ」と、ぼぉーっとしながら思っていました。
ところが、ニュースを聞けば「ボランティアにかこつけた不届き者が被災地に横行している」との報道が。これには大番頭は、頭をハンマーで殴られたような思いがしました。
大番頭は、かつてたった一度丹後の重油被災地に足を踏み入れて「にわかボランティア」で参加したことがありますが、それでも大げさに言えば「ボランティアに行く人」=「奉仕精神の人」と他の方からは見られました。いまだに何かことあれば、大番頭は飛んでいくと思われるのは、それゆえではないかと思うのです。ですからボランティアを装って被災地に入り、救援物資をタダで飲み食いしたり、果ては盗みまではたらいたりなどとは、全く以って言語道断と思います。大変な裏切りです。
・・・けれど、わが身を振り返れば、大番頭もにわかに胸が痛くなりました。
大番頭が丹後の浜に重油拾いに出かけたきっかけは、ほんとうに軽い気持ちからでした。実際に現地でも大したことはできませんでした。わずかばかりの重油を拾ったにすぎません。それなのに現地の方たちからの温かい言葉や、そこで出会った仲間との出会いは、今もって何物にもかえがたいほど大切な宝物です。大番頭が得たものは、不届き者がコソ泥したものなどより、ずっとずっとたくさんの大きなものでした。ボランティアにかこつけた不届き者と、ボランティアとしての意識の低い大番頭とは、それほど遠くないような気がしてハッとさせられたのです。
先週土曜日の新聞に、東京都教育庁が都立高校の必修科目に「奉仕活動」を取り入れる方針を固めたとの記事が載っていました。そこには識者の方々の賛否両論が掲載されていましたが、大番頭は複雑な思いでした。ボランティアが「それほど特別なことではない」という意識を広めるためには、授業に取り入れることも有効なような気もしますが、授業で強制的に奉仕することをして「ボランティア」というのかというと甚だ疑問な気もしてくるのです。ただ勉強嫌いだった大番頭は、教室を離れて友だちとみんなで何かをするというのは、楽しいような気がして、自分が高校生だったら「奉仕活動の必修化」大賛成! というカンジです。あ、また邪まな方向に・・・。やっぱり大番頭にはボランティア精神が身につかないようです。あぁ・・・。



H16.10.01
■見ず知らずの人と話そう
だるまる主人の父は、安全パトロール隊に入っております。(ウルトラ警備隊みたい!)
毎朝近くの小学生の登校時に、交通安全のため通学路に立っているんです。だるまるのこども時代にいた「みどりのおばさん」のようなカンジなのかな…?
毎朝登校していく小学生に義父は、大きな声で「おはよう!」と声をかけるそうです。義父は小学生に人気があるようで、一日でも用事などでお休みすると、翌朝心配されるそうです。「おっちゃん昨日どうしたん?」などと聞いてくるので、うっかり休めないみたいで…。今どきの子も、そんなところはかわいいです。
だるまる大番頭も、毎朝会うお馴染さんがいます。朝8時少しすぎに、手押し車を押して散歩をしているおばちゃんです。毎朝同じ時間に会うので、たまたま「おはよう!」と言ったら、それからずっと挨拶をするお馴染みさんになりました。ちょっとしたおすそ分けなどもするようになってから、「里はどこ?家はこの近所?」などと聞かれて、だんだんに朝交わす言葉が多くなって、駅までダッシュする日も増えました。
でも以前はこんな「名前も知らないお馴染さん」ってあちこちにいたものではないでしょうか。赤ちゃんのいるお母さんは、見ず知らずの奥さんに「かわいいですね。女の子?」などと声を掛けられて、話が弾むことも多かったように思います。犬の散歩や、買い物のお馴染みさん…。女の人というのは、立ち話や井戸端会議に事欠かなかったものです。
ところが今は、そういう光景が少なくなったような気がします。同じ世代のママ同士が集まっているところはよく見かけますが、近所のおばあちゃんが若奥さんと話しているところは殆ど見かけません。今のママは、我が子に笑顔を向けてくれる人に対しても、どこか硬い表情で、見ず知らずの人に声をかけられてどう対応したらいいのか分らないというのがアリアリです。そんなママに出会うと、声かけたがりのだるまるは、かなり寂しい思いをしています。
難しく考えなくても、気持ちのいい挨拶ができれば、見ず知らずの人とも楽しい輪が広がるように思います。何気ない会話で大きな拾い物をすることだって多いですし。だるまる大番頭も、丹後の浜で見ず知らずのだるまる主人と出会って、それはそれは大きな拾い物をしました。かけがえのない拾い物です。
見ず知らずの人と話すという時は、何を話すというのでなく、ただ「おはよう!」「こんにちは!」という言葉があれば、どんどん気持ちのいい空気が伝染するように思います。挨拶というのは単純なのに効用は計り知れないのではないでしょうか。
みんな、もっともっと見ず知らずの人と話してもいいですよ。絶対そう思います!
ただ・・・仲良しが増えて楽しい!コレ事実なんですが、今の大番頭には悩みがありまして、朝のお馴染みさんになかなか、ココ大阪を離れることが言い出せずにいます。明日こそ伝えなければなぁ・・・。おばちゃんの残念がる顔が目に浮かんできて、かなり参っているところです。



H16.08.11
最近よく名古屋が光っているというニュースを聞きます。だるまるも名古屋贔屓で、ちょっとしたイイ思い出もあって、思い入れ多き街なんです。
そんな名古屋について、今日の読売新聞朝刊にこんな記事がありました。

携帯電話から出る電波が心臓ペースメーカーを誤作動させる恐れがあるため、各地の交通機関では、優先座席付近などでの携帯電話の使用を禁止しているが、このほど名古屋市交通局では、地下鉄のホームや電車内を通話できなくする工事を進めている。第二世代と言われる携帯電話から出る電波を、改札口付近にあるアンテナ位置を変えるなどして、防ぐ。ホームや車内を「圏外」にするのは全国の地下鉄で初めての試み。工事は80駅中72駅を9月末でに完了する。市交通局では「事故が起ってからでは遅い。ペースメーカー装着者の安全を守りたい」とコメント(要約)

画期的!これぐらいバッサリと携帯電話を締め出すのは痛快です。行政が本気を出したら、個々のマナー意識も向上するでしょう。こういう試みは、街をアピールするのにも大いに役立ちます。だるまる大番頭、名古屋に大注目です。



H16.08.10
美浜原発で、死傷者11名を出す大事故が起こりました。だるまるは10年前に、広瀬隆著「東京に原発を」を読んで以来、原発反対を口にし続けています。以前は、原子力関係のシンポジウムの末席で恐ろしさに身を震わせていたり、市民運動の人たちの横で、熱い脱原発論に耳を傾けていたりしたこともありましたが、今は忙しさにかまけて不勉強を通しております。ハズカシイです・・・。
ですが、せっかくだるまる本舗を立ち上げたのに、この大事なテーマを取り上げないのは、ゆゆしき問題とふるい立ちました。
本当でしたら、原発の「不必要性」について、多くを語りたいところですが、今日は一点だけ。だるまるが以前、大枚はたいて購入した「平成7年版 原子力安全白書 ――原子力安全委員会編」の一文を、紹介するにとどめます。
原子力の安全神話がどこから発せられているのか、ほんの少し覗いてみてください。

原子力施設に関するQ&Aより(p209)

問9.古い原子力発電所では、経年劣化により、耐震性が低下しているのではありませんか。

(答)
原子力発電所は、起動・停止時に発生する応力など運転期間中に繰り返し発生する応力等による経年変化を考慮して、運転期間中に健全性が確保されるよう設計しています。例えば、

@容器や配管等については、強度計算上必要な厚さに対して十分余裕を持った厚みのものを採用しています。
Aまた、原子炉容器の中性子照射脆化を考慮して、予め照射試験片を炉内に挿入し、適宜取出して評価し、原子炉容器の健全性を確認しています。
Bさらに、耐食性に優れたステンレス等の材料を多く採用しています。

2.また、原子力発電所は、法令等に基づき定期検査を約1年に1回実施していますが、この中で供用期間中検査として溶接部の非破壊検査等を検査範囲、頻度を定めて行うこと等によって、施設の健全性を確認しています。

3.さらに、設置者においては定期検査にあわせて経年変化等を勘案して、改造・取り替え工事を適宜実施し、設備及び機能の健全性、信頼性のより一層の向上に努めています。

4.以上のように、原子力発電所は設計から運転の各段階において、経年変化に対応できるものとなっています。しかしながら、今後とも、運転年数の長い原子力発電所の一層の安全性の向上を図る観点から、その経年変化を考慮しつつ、安全対策の一層の充実を図ることが重要と考えております。

――美しい文章にダマサレないよう注意深く、お読みください。我々が今ニュースで目の当たりにしている美浜原発は「古い原子力発電所」です。ここで実際どんな事故が起こったのか、どうして起こった事故なのか、 新聞やニュースなどと上の回答を見比べて、真剣に考えましょう。だるまるも、今後の動向を追います。



H16.07.31
自宅PCがウィルスの攻撃にあいました。
それまで機械的なセキュリティ対策をとっておらず(ウィルスバスターなどのソフトを導入しておらず)、専ら自身で、メールやデータのやりとりに注意を払っていただけだったのですが、うっかりとワーム型のウィルスに侵入を許してしまいました。

ワーム型のウィルスとは、ネットワークを通じてほかのコンピュータに拡散することを目的とした不正プログラムのことを言います。
わたしが感染したWORM_NETSKY.Qは、WORM_NETSKYの亜種のひとつで、Windowsプログラムの弱点(セキュリティホール)をついて侵入し、勝手に他人のメールアドレスに「なりすまし」て、大量のメールを発信する悪質なウィルスでした。
自分の知らないうちに、自分のメールアドレスのついたメールが、大量にしかも不特定多数に送られてしまい、さらにその不特定多数の中に、自分のアドレスも含まれているために、自分が出したメールで自分のメールボックスが一杯になるというバカバカしい現象もおきて、非常に許しがたいウィルスなのです。
このウィルスは、添付ファイルを開かなくても、メールをプレビューした(メールの文章が開いた)だけで、攻撃の実行がされるため、添付ファイルにさえ気をつけていればいいという認識を大いに改める必要を感じさせました。

だるまる自身、通常でしたら英文件名のメールはけしてプレビューしない(もちろん添付ファイルなど絶対に開かない)主義なのですが、今回感染したのは、届いたメールが、だるまる大番頭が以前勤めていた会社のアドレスだったため、油断してしまったのです。
メールアドレスの@マーク前が個人の姓名で、さらに@マーク以下が会社名プラスco.jpだったため、昔の同僚からのメールと思い込み、うっかりプレビューしてしまったのです。(しかもこの会社からのメールが日に何通も届いていたんです!よっぽど緊急なのかと思い・・・)

ここ最近あまりにも、不審なメールがたくさん届いたため、以前在籍していた会社の同僚に、試しに連絡をとってみたところ、ウィルス騒動でてんやわんやだったと聞き、我がパソコンのウィルス侵入を疑ったのです。

だるまるに届いたウィルスメールの発信元は、このウィルスの「なりすまし」の性質上特定できないのですが、同じようにだるまるをかたって、どなたか別の方に「だるまるアドレス」のウィルスメールが届いてはいまいかと思うと、矢も盾もたまらない気持ちです。
知らぬ間に発信されているため、食い止めようもなく、だるまるにはどうしたらいいのか、どうお詫びしたらいいのか分らず、くれぐれもご注意くださいと呼びかけることしかできません。
本当に申し訳ないです。

現在、このワーム型のウイルスが現状のウィルスの主流を占めているそうで、だるまるメールに限らず、どこから同じウィルスが飛び込んでくるか分らない状況です。今後、最も注意が必要なタイプのウィルスなのだそうです。

どうかこのような悪質なウィルスに侵入を許さないように、Outlook Expressをお使いの方は特に気をつけて下さい。
そして、ひとつだけ。 Outlook Expressをお使いの方は、これだけは必ずしてほしい設定です。

メニューの中にある「表示」から「レイアウト」を選んでください。
そして「プレビューウィンドウを表示する」のチェックボックスのチェックを必ず外してください。
ここにチェックがあると、受信トップのメールが勝手にプレビューになってしまい、ウィルスメールを見たくなくても勝手に開いた状態で出てきてしまうのです。

ウィルスバスターなどのソフトを導入していても、セキュリティは万全ではありません。ちょっと した設定ですが、大いに自衛手段になりますので実行してみてください。

だるまるのパソコンは本日よりウィルスバスター2004を導入し、くだんのウィルスも全て駆除しました。現在のところ問題はありません。

尚、ウィルス対策ソフトの導入を躊躇されているけれども、ウィルスの侵入を心配されている方が、もしいらっしゃいましたら、トレンドマイクロ社が無償で、ウィルスの検索をするツールを提供しています。(削除や駆除は製品版でないとできません)だるまるも購入前、こちらの「ウイルスバスターオンラインスキャン」でウィルスチェックをして、はじめて今回のウィルスを発見しました。
まず、↓こちらにアクセスして、ウィルス検索をなさってみてください。

■ウイルスバスターオンラインスキャン■

自他共楽を謳いながら、ご心配おかけするようなことになってしまい、誠に申し訳なく思います。
今後はいっそうの注意を払って、インターネットと関わろうと思います。どうかよろしくお願い致します。



H16.07.27
こんな詩をご紹介します。「文明」という題です。

    ちびた鉛筆の使い方を工夫するのが文化で
    ちびない鉛筆をつくろうとするのが文明

    ちびない鉛筆は難しくて
    ちびないものをつくるうちに
    鉛筆はどこかへ行ってしまった

    求めるものは
    くるくる変る

    放り出したガラクタだけが
    溢れかえる
    世の中

だるまるは、日本の文化を愛します。芸術や音楽、言葉や生活様式、作法・・・どれをとっても合理的かつ簡素で美しく、日本の文化は他国にも誇れると自負します。日本人に生まれたことを誇りに思います。

対して、これと類似した言葉である「文明」となると、だるまるは、これを愛することができません。むしろ懐疑的です。

三省堂 大辞林 第二版より、「文化」の項を拾うと、このような解説が目にとまります。

「学問・芸術・宗教・道徳など、主として精神的活動から生み出されたもの。」

また同じく「文明」について調べると、このような解説文が引けます。

「文字をもち、交通網が発達し、都市化がすすみ、国家的政治体制のもとで経済状態・技術水準などが高度化した文化をさす。人知がもたらした技術的・物質的所産。」

文化とは多分に、精神的要素が強く、文明は物質的なことを指すようですね。

上の詩では、ちびた鉛筆の不便を思う時、ちびた鉛筆の使い方を工夫しようとする精神活動を「文化」と充て、ちびない鉛筆という"物質"を作る技術を「文明」と充てているようです。

工夫は、想像力を増大させ、心の豊かさを生みますが、物質は一度生み出したら最後、少なからず場所ふさぎとなって、知らぬ間に目の前に山と積まれます。必要な時にはひと財産ですが、不要になればただのガラクタ。人間は本当の価値を知らないので、時と場所によってコロコロ変る価値基準に振り回されて、一瞬にして価値が消えてしまうモノを、作り出しては放り出しして、処分もならず、埋もれながら、もがいています。

物質が人を豊かにするという妄想から、いい加減目が醒めなければ、この先自然と共存して生きていくことは困難でしょう。一部の人たちが、人間が自然を壊すことを憂いておりますが、実際には自然の方が、人間を見放しはじめているのではないでしょうか。

そんなことを思わせる、豪雨の爪痕。今日も日本列島は灼熱の太陽に焼かれています。



H16.07.23
ゆうべの「少林寺拳法的暮らし方のススメ」では「間合」をテーマにして、パーソナルスペースについて触れました。けれど読み返すと、思うことの半分もまとめられていなくて、もどかしい気持ちで一杯です。
そもそもパーソナルスペースとは、個々人でその領域が違いますから、「他人のパーソナルスペースに配慮しなければならない」と一口にいっても、簡単にはいかないですよね。相手にとってどこまでが許容範囲なのか分からない限り、誰かのパーソナルスペースを侵す危険性は、いたるところで常に潜んでいます。
とくに大都市圏などでは、たとえ相手のパーソナルスペースに入りたくなくても(また入られたくなくても)、混雑した電車や街の雑踏の中で、どうしても見知らぬ人と肩口を擦るような場面に遭遇してしまいます。
人ごみの中にいては、これは不可抗力と言わざるを得ません。やむを得ないことです。

ですが、だるまるは、それでもなお他者への配慮は必要なのではないか?と考えます。
パーソナルスペースを侵さないことは、難しいに違いありませんが、だからといって他者への配慮を放棄してはいけないのではないかと強く思うのです。

よくこんな体験をします。

朝のラッシュの電車。もう充分定員オーバーのところへ、駆け込みでその電車に乗り込んでくる人がいます。
その人が、「すみません」とあたりの人に言って、持っていた鞄を胸に抱きかかえ、身を小さくしているとしたら、けしてその人を「迷惑者」とは思わないのです。
ところが、最後に乗ってきた駆け込みの人が、ぴたりと背中をはりつけてきて、やおら鞄から本を取り出し、悠々とその本を読みだしたりすると、俄然「パーソナルスペースの侵略者」に変身するのです。

後者のような人も、実は全く悪意はないのです。
やっとこ乗り込めた電車で、いつものように本を読む感覚。そこには何の後ろめたさもないわけです。背中が後ろの人の背中に貼りついていても、たまたま当人にとってのパーソナルスペースが、背後に関して皆無だったというだけのことなのです。

・・・

だるまるは率直に言って、後者のような人を「悪意がないのだから」と、許容することができません。つまりカンカンに怒るわけです。それはパーソナルスペースの侵害に対する怒りというよりは、他者への配慮のなさへの憤慨と言えるかもしれません。
逆に前者のような人に出会ったら、結果的にはパーソナルスペースを侵されていても、「お気遣いありがとう」とさえ言いたい気持ちになるのです。
「攻撃間合に入ってきたな、イッパツおみまいするゾ」 などという物騒な心は、いつもいつも湧いてるわけではありません。(ホント)
何の配慮も感じられない時、はじめて「パーソナルスペース」を欲するのです。

配慮する気持ち、というのは他者へ伝わります。
たとえうまく結果が伴わなくても、そのやさしさは心を温かくしていくものです。相手も。また自分も。
だるまるはそう信じています。



H16.07.02
昨日、フセイン元大統領ら旧政権幹部を裁く特別法廷が開かれ、出廷した元大統領は「真の犯罪者はブッシュ米大統領だ」と逆襲しました。フセイン元大統領に何の同情も寄せられませんが、いつの時代においても戦争というのは、敗れた者だけが裁かれるという図式になっていて、もう一方の当事者が裁かれないことが、なぜ疑問視されないのか不思議です。より多くの人殺しをしたのは、むしろ勝った側のはずなのに。
チャップリンのあまりにも有名な映画「殺人狂時代」で、これまた有名な主人公アンリ・ヴェルドゥの台詞「一人殺せば悪党だが、100万人殺せば英雄だ。数こそが殺人を神聖にする」を思わずにはいられません。
亡くなった者たちを甦らせることができない人間に、戦争犯罪の償いは絶対にできないのです。戦争に勝とうが負けようが人の血がムダに流される事実は変えることができないのです。
やり場の無い憤りに、胸が悪くなりながら、自他共楽の世界が訪れる日が、儚い夢にならないことを祈るだるまるでした。



H16.07.01
■自他共楽を考える(その2)
少林寺拳法の拳士として、どうにも頼りないのですが、わたしには「半ばは自分、半ばは他人の幸せを」の「幸せ」というものがよく分かっていないのです。
「お財布いっぱいのお金」「強健な体」「やりがいのある仕事」「誰もが羨む地位や名声」「バラ色の恋愛」「慈愛に満ちた肉親」「心から信じあえる友人」…それらすべて、普通に考えれば「幸せ」の要素なのですが、それらは本当の意味で人に「幸せ」をもたらしているのかどうなのか、だるまるは考えてしまうのです。

どんなに環境が恵まれていても、満たさせることがないという不幸があります。逆にどんなに不遇な状況でも、充実した人生を送る人がいます。
わたしの中に理屈はないのですが、虚しさにぽっかりと穴のあいたような心に、いくら幸せの要件が積み重なっても、与えられたもので、人は幸せにはなれないような気がするのです。 「お財布いっぱいのお金」も「強健な体」も「やりがいのある仕事」も、何か人間の外側にあるもののような気がしてしまうのです。わたしの思う幸福は、自分の中からふつふつと湧き上がる「喜び」であるような気がします。「喜び」が湧くということ、人が幸せを感じるということの条件は、それぞれの心の在り方で決まるのではないか…。
そんなわけで「半ばは他人の幸せを」と考える時、ハタと立ち止まってしまうのです。

人間はさびしい存在だと思います。他の動物にはないすぐれた知恵を授かり、食物連鎖の頂点に立っていても、孤独です。人は人を、どれほど理解していると思っていても、その人にはなれません。だからどんなに頑張っても、誰かの幸福の手助けをすることは難しいのではないだろうか…。

ですが、同じ孤独を抱えた人間同士が、分かり合おうと努力していたら、いつかどこかの誰かの心の中で、「喜び」が湧いてくるのかもしれないとも思うのです。
ギスギスして、己ばかりを押し通して生きている者ばかりになったら、どれほど生き難い世の中が出来上がるだろう。
「自分半分、残り半分は譲る気持ち」
わたしの標語は、そんな気持ちで誕生しました。
不完全な人間に生まれついても、出来うる限り最善を尽くす。本当の幸福が何かはわからないけれど、せめて自分の「ウレシイ」の半分を譲ってみる。
そこからはじめる自他共楽に、賛同してくださる方がいたら、自他共楽応援団長冥利につきます。少林寺拳法の拳士のみなさん、こんな考えでは「自他共楽」の布教にはなりませんか?いつまでも未熟でスミマセン…。



H16.06.30
■自他共楽を考える(その1)
このページのタイトルに「自分半分、のこり半分は譲る気持ち――自他共楽」とあります。コレほんとはわたしがつくった標語なんです。少林寺拳法の道場で聞く「自他共楽」は、「半ばは自己のため、半ばは他人のために」というのが普通です。

  「自他共楽」 〜抜粋〜
  人間は自分ひとりで生きているのではなく、たくさんの人に
  支えられて生きている。己の幸せを考える時、同時に半分
  は他人の幸せのことも考えなければならない。


だるまるが標語にした「半分は譲る気持ち」では、自他共楽の大義からいくと、ほんの一部分を指しているにすぎません。「自己と他人の幸せを考える」という部分がスパッと抜けて、「何でもいいから譲ろうよ」になってしまっています。自他共楽応援団長を自認しているわりに、少しいい加減な応援文句。次回、ちょっとその言い訳を聞いてください。



H16.06.26
いきなりですが、赤信号の時、右折車が横断歩道付近まで入りこんでいて、青信号に変ってもすぐ走り出さずに、歩行者が渡りきるのを待ってくれてるってことよくありますよね。わたしも今日青信号を待っていたところ、そんな右折待ちのトラックがいたんです。たまたま、横断歩道で信号待ちしている歩行者はわたしひとりだったので、直進の邪魔をしているそのトラックに、どうぞお先に(行ってください)と手振りで合図を出したら、トラックの運転手は歩行者に道を譲られたのが意外だったのか、ちょっと驚いて、でもにっこり笑って通り過ぎて行きました。急いでいるのでなければ、車に道を譲った方が、交通の流れがスンナリすることって結構ありますよね。車の運転手より歩行者の方が見通しがいい場合もあるので、前後左右を見て、自分が先に渡ったらいいか、待った方がいいか判断するのは大事だと思います。でもそんな場合、歩行者が車の運転手に出す合図って、特に取り決めがないんですよね。車側からだと、クラクションで知らせたり、パッシングしたり、手を上げたり、いろいろな挨拶が日常化してるのですが、歩行者が運転手に出す合図ってなかなかイイのがないので悩んでいました。お礼のお辞儀くらいなら理解されるのですが、「どうぞお先に」を、わたしはうまく表現できなくて、「わたしは直進しません!」をアピールするために、後ろを振り返ってみたり、殊更横断歩道から離れて立ち止まってみたり。でもあまり運転手さんには、そのアピールが通じなくて、お互い道を譲り合ったまま立ち往生で、後ろから来た人に、怪訝な顔で通り過ぎられたりしていました。でも今日運転手さんに送った「どうぞ」の(ウェイターさんがよくやるような)手振りが、運転手さんの笑顔を誘ったのはとっても嬉しかったです。そうか!オーバーなアクションで恥ずかしいような気がしてたけれど、声が届かないのだからこんなポーズもアリなんだなぁ。単純なことなのに、とても楽しい発見のような気がして、サイトでも報告してしまいました。



H16.06.24
勤め先の最寄駅近くに、お気に入りのスーパーがありました。今は仕事が変わったために、そのスーパーに立ち寄って帰ることはないのですが、普通のスーパーでは手に入らないこだわりの食材や、からだに配慮した無添加の加工食品などを扱っていたので、少し遠回りしてもわざわざ寄って帰ってました。
そのスーパーはサービスもなかなかで、レジで会計の際、商品の袋詰を一手に引き受けてくれるンです。お店がとっても小さいので、スペース上の問題で、店員さんが袋詰をした方が効率的だったようです。でも、レジ打ちして袋詰まで店員さんが引き受けたら、さぞやレジの順番待ちに時間がかかるだろうと思うでしょ?ところが、これが見事な仕事っぷりなのです。ジャストサイズの袋に気持ちのいいバランスで商品が詰め込まれていくのです。しかもスピーディ!だるまるはせっかちなので、スピーディが大好きなんです!普通ならレジに立つと「袋はいりません」と言いたいだるまるですが、このスーパーではそのひとことを、いいそびれてしまうくらい素早い動きに圧倒されてしまうのです。
兼業主婦という職業柄、スーパーマーケットはあちこち渡り歩いておりますが、どこでもレジの店員さんへの不平不満は上げればキリがありません。どんな仕事でも、職業意識って大事でしょ!なんて、お説教したくなること度々です。でも、職業意識なんて大げさに言わなくても、実はカンタンなことで、少し相手に対する配慮の気持ちがあれば、大概の不満は解消されるように思います。たかだかスーパーでの1コマですが、気持ちのいい店員さんに出会えたら、その日いちにちの印象も一新してしまいます。
そうそう、お客としてレジに並ぶ時も、後ろに並ぶ人や店員さんに、少し配慮したいですよね。お財布から9円出して握っておく、なんていうのも思いやりなんですよ。「××××円です」とレジの人に言われてから、1円玉を探したら、後ろの人を無駄に待たせてしまいます。準備よくスマートに。コレせっかちなだるまるじゃなくても、ウケルと思うんだけどな。



H16.06.16
大阪は連日の夏日で、梅雨入り宣言もどこへやら、通勤にも本格的な夏姿の人がかなり増えました。 男性サラリーマンはスーツが制服ですから、どんなに暑くても、涼をとるにはせいぜい上着を脱ぐか、ネクタイは会社に到着するまで省略、ぐらいですよね。エアコンのよく効いた電車でさえ、汗を拭うサラリーマンを見かけると、少し気の毒なような気がします。 そこへいくと、女性の夏姿はずいぶんとラフになってきました。そこまでラフだと無防備とさえ思えて…。 そこで本日も一言。モノ申させて頂きます。

実はこの文章は、ひさびさに座れた通勤電車の車中で、手帳に走り書きしてるものなのですが、どうにも気になって仕方がないのが、目の前に立っている女の子の足元――ビーチサンダル履きなんです。彼女はビーチサンダルを履いて、朝8時過ぎのラッシュ時間帯のJR東海道線に乗って来たわけです。車両は、一昨年4月から痴漢対策用に設けられた女性専用車両。ピンヒールの女性も当然のことながらたくさん乗っています。もし急ブレーキがかかって、そのピンヒールの一本が、ビーチサンダルからはみ出たペティキュアの指先に乗っかったら・・・。ぞォ〜!ヘタなスリラーより背筋が凍ります。 はっきり言ってビーチサンダルなんてバカげてます。ひとめで危険と分かる格好です。怪我をしても同情の予知はありません。危険を未然に防ぐのも、自分の身を守るのも、まずは自分なんですから。

ドライなだるまる個人としては、おバカさんに冷たいですけど、これが自他共楽応援団長という立場では一つ見過ごせないことがあるのです。それはおバカさんのウッカリのおかげで、出なくていい加害者を出してしまうということなのです。ビーチサンダルを履くのは自由かもしれません。でも偶然隣り合わせたおかげで、急ブレーキによってお隣の人の足に怪我をさせたら、その人は加害者になってしまうんです。でなくてもいい加害者が(←被害者でなく)を出してしまうことになるんです。ここが見逃せません。自他共楽は、「自分さえよければいい」を最も嫌うんです。そうそう、もうひとつ言えば、ラッシュ時のピンヒールの靴だって、兇器になりますよ。大げさではありません。だって自分がピンヒールに踏まれた当事者と思ったらどうでしょう。
ビーチサンダルもピンヒールも、自分が好きだからというだけで、どんな場所でも通すというのはゴーマンです。ファッションだって、どこかひとつ誰かに譲る気持ちがあったら、その人はますます光るというものです。これホント。マチガイナイ!(あれ?どこかで聞いたような?)



H16.06.08
だるまるはかねてより「おはようございます」にこだわっております。しかしコレがなかなか浸透されない。職場の同僚に「おはようございます」がないことを、こっぴどく叱ったこともありますが、翌朝くらいは言ってくれるものの、じきにナイガシロにされてしまいます。その同僚曰く「血圧が低いから朝イチは元気よく挨拶ができない」とのこと。だるまるを甘く見てはいけない。カラダが弱いからといって、許すようなだるまるではないのだ!
なぜだるまるが「おはようございます」にこだわるのか。それは「おはようございます」には大きな力があるからなのです。
一日のはじまりはさわやかな方がいいに決まっています。新鮮な森の空気を吸って、小鳥のさえずりで目が覚める…そんな風に一日のはじまりを迎えたい。けれども現実は、行きたくもない会社に行くために、乗りたくもない満員電車に乗って、会いたくもない上司の顔を見て、そして朝がはじまるのです。月曜日の朝ならなおのこと、気分は曇天です。とりあえず、自分を奮いたたせるために、会った人には気持ちよく「おはよう!」。コレなんです。自分にイッパツ喝を入れるための気合なのです。ところが、「おはよう!」には自分をシアワセにするだけではなく、挨拶された側を爽やかにする効果があります。むしろそっちの方が効用は大きいです。二日酔いでもない限り、元気に「おはよう!」と言われて不愉快な人は、よほどのヘソ曲がりです。朝の「おはよう!」は、自分と人をいっしょに喜ばせる、大切な言葉なのです。低血圧で元気が出なくても、「おはよう!」の表情を向けるだけでも、相手を喜ばせ、自分を奮い立たせる元気を呼ぶのです。…わたしはこれをオロソカにする動きをストップさせます。自他共楽の基本は朝のご挨拶!自他共楽応援団長として、朝の「おはようございます」を強力に推進します。



H16.06.07
うっとおしい季節が来ました。全国各地梅雨入り宣言ですか。カナイマセンなぁ。6月生まれなので、雨が好きになりそうなものですが、わたしはピーカンが好きです。緑の中にいれば雨の景色も風情があっていいのですけど、人の多い街暮らしにとって、雨は憂鬱を呼ぶものでしかありません。憂鬱の理由は単純で、それは「傘」なんです。傘をさして歩くこと自体は濡れるのがイヤなので諦めがつくのですが、滅入るのは、あまりにも傘のさし方、持ち方に配慮のない人が多いことです。傘のさし方、持ち方でその人の、他人への配慮の度合が分かります。前から歩いてくる人とすれ違う時、向かってくる相手と逆側に傘を傾げる人が最近めっきり減りました。女性が小首を傾げるように、傘をそっと反対側に傾げるポーズは美しいしぐさと、わたしは思うのです。けれども今はどんなに狭い道でも、どんなに妙齢なご婦人でも堂々とまっすぐに傘をさして歩いてきます。わたしはこれが堪らないのです。相手に道を譲りたくないという積極的な気持ちではないにしろ、相手がすれ違いにくいことなど、まったくお構いなしで歩いてくる人に出会うたび、ストレスが高くなっていくのです。
また、閉じた傘を持って歩く人にも、憤慨することが多いです。人の多い場所を歩く時、手に持つ傘を振って歩いたら、後ろにいる人、すれ違う人、大変危険なことに気づく人はほとんどいません。駅の階段を上る時、前を歩く人の傘が目に当たりそうになることも少なくないのです。そこで、自他共楽応援団長としてご提案です。傘をさして歩く時、また閉じて手に持って歩く時、周りの人にあたらないように、ほんの少し気を配ってみましょう。みんながそんな気持ちになれば、雨の憂鬱はかなりの勢いで晴れまよ。小首を傾げてくれた傘に「どうも」などと言葉を添えたら、さらに気持ちのいい雨の1日を過ごせます。街暮らしにとっても、恵みの雨を楽しみたいですよネ。



H16.06.05
道端の花や、巣立ち間近のつばめたちを見ていると、人間のような知恵を持たないものたちの方が、なぜ謙虚であったり、自分のやるべきことをちゃんと知っていたりするのだろうか、と思う。知恵を授かった人間が、己のシアワセを実現することにだけ終始しているのは、恥ずかしいことと思う。そんなことにあらためて気づかされる梅雨入り前の晴天の休日。明日子つばめたちは巣立つんだろうな。



H16.05.21
半ばは自分の幸せ。半ばは他人のために。少林寺拳法では普通に聞かれるこの言葉ですが、「自分半分、他人半分」の自他共楽の精神ってナカナカいいですよね。こんな意識が、広くたくさんの人の心に咲いたら、随分と風通しのいい世の中ができあがるのではと思います。せちがらい世の中で自他共楽を広めるためにちょっとガンバッちゃおーかな…と、そんな今日この頃です。



Copyright (C) darumaru honpo, All Rights Reserved.